【島根県】難攻不落の五大山城/安来市月山富田城

 島根県安来市広瀬町に横たわる一級河川の飯梨川(昔は富田川)。その川沿いの丘陵地帯にある「月山富田城(がっさんとだじょう)」。近くに広がる能義平野が育む豊かな穀物。中国山地からは良質な砂鉄が採れ、海に接する美保関からは舟税収入もあり、出雲國は古来よりとても豊かな国でした。その出雲国安来で栄華を誇った尼子氏自慢の山城があります。

安来駅方面から広瀬町に向かいます。しばらく飯梨川に沿って小高い山々が続きますが、やがて日本五大山城「月山富田城」が姿を現します。見てお分かりのように高低差(標高197m)がある天然の要害です。「日本五大山城」の一つに数えられています。

月山富田城の築城は、諸説ありますが長寛二年(1164)に平景清が築城したとも言われ、明徳二年(1391)に起こった「明徳の乱」より尼子氏の居城となりました。「明徳の乱」とは、室町時代に山陰の守護大名であった山名氏が、その勢力を削ろうとする足利義満と京都で起こした乱。

結果は、幕府側の勝利し功績のあった京極高詮(たかあき)に出雲・隠岐が与えられ、守護大名となり統治する事に。ひとまず高詮は弟である高久の子 尼子持久を出雲の守護代(代理)に任命し派遣、それから出雲は尼子氏の統治となり、その拠点として月山富田城が選ばれました。

川沿いにある三日月公園には「尼子経久公像」があります。尼子家は元々名門京極佐々木氏の支族で近江國犬上郡尼子郷(現在の滋賀県甲良町)にいたので〝尼子〟と名乗り備前を治めていました。経久公(写真:洞光寺所蔵)は持久公の孫にあたります。京極政の偏諱をもらい経久と改名、戦国時代の下克上でのし上がり、やがて山陰・山陽の覇者と言われるまでに尼子氏は勢力を拡大させました。

下の駐車場から本丸へ向かうと途中にある銅像。「山中鹿之助幸盛公像」です。三日月の前立ての兜を被り、三日月に向かって「我に七難八苦を与え給え」と祈願した逸話をイメージした姿で建っています。尼子氏の忠臣で「尼子十勇士」「山陰の麒麟児」ご存知の方も多いのではないでしょうか。(写真:安来市教育委員会)

山中幸盛公についてはこちらへ。

鹿之助像を過ぎると「尼子神社」があります。こちらには

主祭神は尼子三代城主「尼子経久、晴久、義久、山中鹿之助幸盛」。無人社で誰もおられません。

急勾配の道を登り「千畳平」「太鼓壇」「奥書院平」「花ノ壇」を抜けると、ひらけた曲輪にたどり着きます。

ここには「山中御殿」と言われ、城兵たちの屋敷などがある生活空間・たまり場となった場所。

横に逸れると「大土塁」があり、この曲輪で侵入した敵兵を攻撃します。上からも横からも狙い撃たれては、とても本丸へは近づけません。敵兵がなんとか切り抜けても、更にもう一つの難関が。見上げるほどの断崖。通称「七曲り」と呼ばれる崖がそびえ立っています。

「七曲り」と呼ばれるこの山道は、大抵の人が根をあげる急な登り道。足場が崩れないように固いコンクリートで補強され汚れず登れます。が、この急坂が大変で。当然いたる所に城兵が待ち構えてたことでしょうから、難攻不落と言われるだけあります。

小休憩をとりながら登る途中に下を眺めると、まさに崖に掛かるはしごの様です。登城した季節は年末でしたのなんとか登れました。夏場だと…….考えたくないくらい汗

登り終えると、やっと石垣に囲まれた本丸が現れました。難攻不落のお城だけあって強固なつくりです。今は鎖で囲まれ雑草も刈られ、歩き易くなっています。

やっと本丸へ辿りつきました。やはり眺めが最高です。奥には日本海。川が流れ込み周辺には田畑が広がり集落のパノラマ。フォトスポットの演出用としてフキダシパネルも。

山頂の奥には「勝日高守神社」の社殿があります。「大国主命が祀ってある。(尼子時代は、代々城内のまもり神であった)」無人社です。

きっとこの辺りで眼下に広がる領民を眺めながら、敵に備え監視していたのでしょう。領民も安心して生活できます。日々の運搬は大変でしょうけど。

下に安来市歴史資料館があり、横の駐車場に停められます。尼子うどんの看板もあります。軽食もできます。(定休日は水曜ですので注意です)こちらには、月山富田城の史料があります。1階はジオラマやトリックアート、二階は史料が展示されています(撮影不可)。

そのほかに資料館では御城印・御朱印も販売されています。

道の駅 広瀬富田城 広瀬絣(かすり)センター

歴史資料館に併設されている道の駅で、月山富田城に因んだお土産品や絣製品、尼子うどんもいただけます。店休日は水曜日なので注意です。

「尼子うどん」も販売されています。こちらは「鶏天うどん」です。美味しかったです。

山麓の史跡

山麓や周辺には墓所やお寺が色々あります。

別の登山口にある朱色の赤門「巖倉寺の山門」。こちらの石段を登って行くと

堀尾吉晴公の墓

堀尾吉晴公 天文十二年〜慶長十六年(1543〜1611)松江藩主。月山富田城が不便な為に廃城にし、その廃材を一部利用して松江に湖城「松江城」を築城しました。

山中鹿之助幸盛公供養塔

山中鹿之助幸盛(正式には鹿之助)天文十四年〜天正六年(1545〜1578)。尼子再興軍を率いる尼子十勇士の一人。

尼子晴久公の墓所

城主だった尼子晴久公のお墓です。麓の道沿いにあり、狭いですが駐車場があります。

尼子晴久公は経久公の孫で、父正久が出雲阿用で戦死したあと、経久より家督を相続した猛将であった。永禄五年(1562)城内に置いて49歳で急死し、そばに並んでいる墓は殉死した人々の墓石と思われる(永禄三年47歳説もある。)

山中鹿之助幸盛公の屋敷

山に向かって左側に細い道路を進むと、やがて見えてくる山中鹿之助幸盛公のお屋敷です。

屋敷の近くには車を数台止められるスペースがあります。奥に見える住宅地の先には「新宮党」と呼ばれる尼子氏を支えた精鋭部隊の屋敷跡があるようです。

尼子経久公募

月山富田城と川を挟んた広瀬町にある洞光寺。細い町道から入った所にあります。

こちらには尼子清定・経久公墓所があります。

少し高台にあるのでとても景色が最高です。かつての居城である月山富田城を眺めながら経久公は眠っておられます。

尼子氏時代(簡単にまとめてますが長編です。)

 出雲・壱岐を任された京極氏の家臣だった尼子氏。いつしか独立心が芽生え、密かに美保関の港の税を私物化、寺社領をも押領したため経久公は守護代の職を解かれ月山富田城から追放されてしまいました。取り返したい経久公は二年後の文明十八年正月元旦、毎年年頭に行われる「恵方万歳」という祝事を利用しました。

月山富田城奪還作戦

「恵方万歳」とは、月山山麓に古くから遊芸を生業として来た鉢屋党が正月に太鼓と笛を打ち鳴らし城内で正月祝いをするお正月の恒例行事。「あら、めでたやめでたやな、新たなる年をことほぐ万歳でござる!」その烏帽子や素袍姿その数70近く。しかし実は、その一行の中には鎧を着込んでいた尼子勢が紛れていました。

賑やかな囃子で大手門から難なく城内へ入った一行は、酒や雑煮の振る舞いを受けお祭りは最高潮。頃合いを見計らった尼子勢は、一斉に甲冑姿となり搦め手から次々と躍り込みます。それに呼応する鉢屋党、呆然とする城兵。ものの見事に奪回に成功し再び城主に返り咲きました。

その後、石見銀山、海運・交易などで財力を増した尼子氏は勢いを増し、ついには周防・長門の大内氏と並ぶ中国地方の二大勢力へ。周辺で敵対していた小豪族や国人衆たちを味方に「十一州の太守」と評されるまでに成長。経久公から晴久公へ代替わりすると、長門・安芸・備中制覇を次なる目標に定めました。(写真:尼子晴久公:山口県立博物館所蔵)

尼子十旗

一方で領地の守りも怠りません。本拠地の防衛線として「尼子十旗」(白鹿城・高瀬城・熊野城・神西城・大西城・牛尾城・三刀屋城・三沢城・馬木城・赤穴城)といわれる10の支城を配置し、家臣の中から選りすぐりの武士を選び「尼子十勇士」を結成、万全の体制を整えました。

ライバル毛利氏

 一方、尼子が次に狙う安芸・備後(東広島地方)には、毛利氏・吉川氏・小早川氏を含む「芸備三十八衆」と呼ばれる国人衆がおり、大内氏の配下ではありましたが、従属はせず対等の関係を築いていました.。尼子氏は、その国人衆を尼子寄りにするべく安芸北部最大の豪族吉川経基の娘を娶り、嫡子政久をもうける事で安芸北部の国人衆を味方につける事に成功しました。(写真:吉川元春像)

数を増した尼子氏は、次なる目標である大内氏の防衛線鏡山城を攻めよと毛利家当主興元(幸松丸)に出陣を要請。後見人で幸松丸の叔父であり、初陣で元安芸守護武田元繁を破った名主毛利元就公(二十七歳)は、国人衆が尼子寄りの為に断れず、やむなく大内氏との関係を断ち、尼子側として幸松丸と共に鏡山城攻めの急先鋒を務めました。(写真:毛利元就公)

●鏡山城落城後の亀裂

 大内の家臣蔵田房信が守る鏡山城はとても堅固で毛利・吉川連合軍でも、なかなか落とせませんでしたが、元就公と同じ国人衆の間柄であった敵の蔵田日向守(房信の叔父)へ本領安堵と家名存続を条件に説得し寝返らせ鏡山城を陥落させる事ができました。経久公は元就公を褒める一方、主君を裏切った蔵田日向守へは切腹を命じ、面目を潰された元就公は激怒します。

毛利家の後継問題

鏡山城攻めから帰城した幸松丸が急病で亡くなり、次の当主を誰にするのか問題になりました。大勢は元就公を擁することで決まりましたが、元就公を討ち異父母の元綱を擁立しようとする一部の重臣たちへ尼子氏が援助していたことが発覚。ここで両者の関係は完全に破綻、毛利氏は再び大内側へ付く事に。そして尼子勢と毛利氏との決戦に至る事に。

吉田郡山城の戦い

天文六年(1537)八月、尼経久公の跡を継いだ晴久公は、大内氏に奪われていた大森銀山を奪取、さらに美作、備前、播磨を席巻した後、この広島県安芸高田市にある「吉田郡山城」を攻撃します。

しかし、数で勝る尼子軍でしたが、毛利側の思わぬ抵抗で長期戦となり長距離移動の尼子側の食糧は次第に底をつき始めます。冬を迎え厳しい寒さと飢え、さらに毛利側に大内勢の援軍との戦闘で冷たい川で溺れる者や逃げ出す者多数。包囲は五ヶ月に及びましたが、ついに攻撃を諦め、尼子軍は総退却しました。

大内氏との月山富田城の戦い(第一次)

この敗退によって多くの国衆が尼子側から大内側へと帰属、経久公も月山富田城内で亡くなり尼子衆に動揺が広がります。大内義隆は、この機を見逃さず天文十一年の正月、自ら大軍を率いて出雲へ向かい翌十二年二月には尼子氏の本拠地「月山富田城」の見下ろす京羅木山に陣に着陣。大内軍の中には毛利元就公の姿もありました。写真:大内義隆

しかし、大内軍は月山富田城の「堅固さ」に驚愕します。いくら攻めても落ちません。それどころか尼子側に形勢を見て寝返る者も続出。長距離移動の大内軍の食糧は次第に底をつき、ついに攻城を諦め総退却をはじめました。毛利戦との逆の展開です。

おめおめ逃すかと追撃に出る尼子軍に大内軍は総崩れ。退却中、揖屋浦(出雲町)から海路で帰国しようとした際、大内晴持(義隆の養嗣子)の乗った船が転覆し溺死。なんとか逃げ帰った大内義隆は、ショックのあまり以降の活動の一切を家臣に任せ築山館(山口県)に籠り文人として風月を楽しむようになりました。

その主君に不満を抱く家臣団は対立、ついには重臣陶晴賢の謀反により義隆は自害。晴賢は九州の大友義鑑の次男晴英(義長)を当主に据えて乗っ取りを計りましたが、毛利氏は許さず村上水軍の協力させ厳島合戦で陶晴賢を、後に晴英(義長)も功山寺で討たれ、毛利氏が大内領の大半を治めました。

毛利氏との月山富田城の戦い(第二次)

大内氏に代わって芸備防長四カ国の太守となった毛利元就公は、有力の国人衆である吉川家に次男元春、小早川家に三男隆景を送り込み「両川体制」をもって山陰制覇に目を向けました。永禄五年(1562)15000の大軍で石見路を経由して大森銀山を奪回、一気に出雲平野に進出し尼子氏の本拠である月山富田城へ進軍しました。

対する尼子側では晴久公が城内で急死し義久公が引き継ぎ備えます。とはいえ難攻不落の山城なので大内勢と同じく退却するだろうと思っていました。案の定、毛利側も苦戦し力攻めは無理と判断、兵糧攻めに切り替えました。その間に尼子十旗の支城を次々と攻略していく毛利勢。

尼子十旗の中で最も強固な白鹿城でしたが大軍の前に風前の灯火。救援を求めに応じ尼子側でも義久公の弟の倫久を総大将とした10000の救援軍が向かいましたが敗れ、永禄六年十月二十九日に落城。海からの補給路も毛利の軍船で遮断され、月山富田城は孤立無縁になってしまいました。写真:白鹿城跡

吉川元春の太平記

毛利側は、最後決戦を急がず包囲と同時に中海や三保湾周辺には軍船を配して陸海ともに補給線を遮断し持久戦を続行。陣中では蹴鞠や連歌の会を催し、好学の吉川元春は陣中で「太平記」を全40巻の筆写を完成させるほどの余裕を見せます。このとき吉川元春が書き写した太平記は国の重要文化財に指定されています。

難攻不落

孤立する月山富田城内で籠城する尼子勢、毛利側は城下に火を放った後の永禄八年四月十六日、いよいよ総攻撃を開始。三万の軍勢を三隊に分けて、元就公を総大将、子の輝元を先鋒とする本隊が正面の御子守口から、吉川元春とその子元長を大将とする一隊が北方の塩谷口から、小早川隆景を大将とする一隊が南方の菅谷口から一勢に攻撃。

対する尼子勢は、尼子義久を総大将とする四千が御子守口、尼子倫久を大将、山中鹿之助、立原久綱ら五千は塩谷口、尼子秀久を大将とする三千を菅谷口に配置して応戦。兵力は3分の1の尼子勢ですが、難攻不落の月山富田城という強い味方が付いてます。

連日連夜、大挙突入しても一向に崩せず一進一退で双方損害が増すばかり。総攻撃開始から10日後、先に折れたのは毛利勢で一旦洗隈城へ兵を引き揚げ、包囲は解かず時期を待つ事にしました。九月二十日、兵を立て直し再び月山富田城へ出陣します。今度は前回の経験から一気攻めから小規模の戦闘で消耗させる作戦に切り替えました。そんな中で、富田川の中洲で後世に語り継がれる「武勇伝」が展開されます。

中洲での一騎討ちの地

尼子勢の山中鹿之助幸盛と毛利勢の品川大膳との間で一騎討ちが行われた場所に石碑があります。山中鹿之助幸盛が勝利し、疲労困憊の尼子勢の士気を高めました。

しかし、それは一時的で毛利側の兵糧攻めはさらに苛酷を極め、初冬になると城内の兵糧は完全に底をつき城兵が外に逃げ出します。それを見て、毛利側は頃合いとみて投降を促す立て札を出しました。

忠臣宇山久信の死

これにより城を出て行く城兵が多数続出。亀井秀綱、河本隆任、河副久盛、佐世清宗、牛尾幸清など尼子譜代の重臣・側近たちが続々と投降し、尼子側の戦力はさらに低下していきます。

そん状況の中でもあきらめず最後まで残った忠臣宇山久信父子がいましたが、「毛利側と内通している」と大塚与三衛門の嘘により久信は斬られてしまいました。すぐそれは偽りだと分かり三衛門は斬られましたが、城内は大混乱に陥り総崩れとなってしまいました。

対決の行方

永禄九年、風邪で体調を崩していた高齢(70)の元就公は、終結を図るべく米原綱寛を使者に立て和議を持ちかけました。山中鹿助や立原久綱は徹底航戦を主張しますが、尼子義久、倫久、秀久の三兄弟は開城降伏を決意。

十一月二十一日誓書を交わし、七日後の二十八日に月山富田城を出て軍門に降りました。城内に残った尼子の兵はわずか140人ほど。尼子経久公から続いた80年に及ぶ栄華は、ここに終わりを告げました。城から出た尼子勢は杵築の地で離散。尼子三兄弟は芸州高田郡長田の円明寺へ入り監禁されました。

尼子再興軍

永禄十二年、尼子を支えた忠臣山中鹿助幸盛は、尼子再興を掲げて再び立ち上がりました。毛利氏と対立する織田信長を頼り、尼子氏の血縁がある尼子勝久公を擁立して出雲奪回への戦いを挑みます。毛利氏が九州の大友氏との戦いのために兵力の大半を九州へ向けていた隙を付いて、次々と城を落とし月山富田城へ向かいますが、強固ゆえに入る事ができませんでした(布部山の戦い)。

天正六年(1578)播磨國上月城にて籠城しますが落城し、毛利軍に投降。備中松山へ護送される途中、阿部川阿井の渡しにて斬られ尼子再興の夢は幕を閉じました。写真:上月城跡

その後の月山富田城

尼子氏が出た月山富田城は、その後毛利側の城代が入り、のちに吉川元春が治めますが、関ヶ原で西軍だったため転封。慶長十六年(1611)出雲・隠岐23万5000石を治めることになったのは堀尾吉晴公。のちに月山富田城は廃城となり、宍道湖畔に新しい城「松江城」が築かれました。なお、取り壊した月山富田城の部材が一部に使われていた事がわかっています。写真:松江城

廃城から年経った月山富田城には、再興を夢みた山中鹿助幸盛公像と数々の遺構が当時を偲ばせています。

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