徳川側と豊臣側に分かれ、大坂城とその周辺を舞台に勃発した合戦「大坂の陣」。二度にわたる戦いの最初の冬の陣。その名所を巡りました。
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豊臣勢はお城を中心に固め、それを包囲した布陣の徳川勢、城の南側には全国の諸大名隊が並び、後方の茶臼山本陣には総大将の徳川家康公。対する豊臣勢は、関ヶ原で敗走した武士や各地の浪人たちをかき集めた烏合の衆。いかに周囲を川とお堀に守られた難攻不落の大坂城でも、手薄な南側を一気に攻められたらひとたまりもない。
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弱点と見抜いた真田幸村(信繁)公は、わずか一ヶ月で出城(砦)有名な「真田丸(偃月城)」を完成させ3000人を配置。訓練し戦いに備えます。その後の活躍ぶりはご存知の通り。功を焦った前田利常隊・井伊直孝隊・松平忠直隊は、まんまと術中にはまり真田の鉄砲隊に撃退され、徳川勢に大打撃を与え一躍、真田幸村公の名が天下に轟きました。
真田丸跡と真田幸村公の墓
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現在、真田丸跡は住宅街の中にあるお寺「心眼寺」の門の横に石碑が建てられています。
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綺麗に六文銭のノボリも設置されています。「真田幸村出丸城跡」別名、偃月城(えんげつじょう)、曲輪が三日月の形をしていたのでそう呼ばれていました。
中へ入ると
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「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と彫ってあります。横に小さなお堂がありました。
三光神社
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真田丸のすぐ近くにある神社。「三光神社」。参道にはたくさんの六文銭の赤備えのノボリがためいていて、まるで真田丸の砦の中にいるように錯覚してしまいます。男性陣は一気にテンションが上がるのではないでしょうか。
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訪れた季節が秋、落ち葉の絨毯の上を歩いて参拝しました。拝殿の横にはくり抜きパネルもあります。この時も父親と息子さんが記念撮影されていました。お父さんの夢なのでしょう。
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小さいですが見事な「真田幸村 大坂の陣ねぷた」がありました。他にも名物があります。
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昭和62年5月5日に建立されました「真田幸村像」。台座に「真田石」と彫ってあります。この台座は信州上田にある真田家の菩提寺、長谷寺より取り出した石(真田石)だそうです。
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さらに横にあるこちらの神社イチ推しと言える「真田の抜け穴」です。大坂城まで続いていると伝わりますが、現在は封印されていて入れません。立っている場所が真田丸の一部にだった証ですね。
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社務所には御守りや御朱印、御朱印帳もありました。これはもういただくしかありませんね。
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真田の赤備えの赤を基調とし、家紋の六文銭が入った御朱印帳です。
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豊臣秀頼公の像
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大阪府中央区にある森之宮駅から南へ徒歩で10分ほどの場所に御鎮座されている「玉造稲荷神社」。こちらに豊臣秀頼公の像があります。
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「創建は垂仁天皇十八年秋(紀元前十二年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉作部の居住地にもなりました。その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。
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一方、近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祀り、その後、徳川の世に入っても大坂城代着任の際、当神社に参拝し定紋の提灯を奉納する等その厚い信仰は引き継がれました。」
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「豊臣秀頼公は文禄二年(1593)八月三日に豊臣秀吉と淀殿のもと大坂城で御出生されました。秀頼公は一般的にひ弱で優柔不断なイメージを持たれていますが、実像は「大兵にて御丈6尺5寸(約197cm)余り、たいへん賢い人なので他人の臣下となって命令に従うような人物ではない。「明良洪範」より」とされ、幼少の頃より帝王学を学び豊臣家の後継者、また摂関家の当主として相応しい素養を身につけていました。
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慶長十六年(1611)三月に京都・二条城において19歳の秀頼公と徳川家康(家格は豊臣家より一段下の清華家)が会見した際に、家康が秀頼公の威風堂々たる容姿を目の当たりにし、成長していく秀頼公の存在が徳川家の将来に不安をもたらすと考え、豊臣家の滅亡を誓ったと言われています。
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秀頼公は22年間の短い生涯の中、日本各地の神社仏閣を再興し、また多くの民衆から支持を受け、徳川幕府に対峙する一方の雄として格別の権威をもって大阪城に君臨されました。
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当神社は豊臣期に大坂城の鎮守社として崇敬され、この地が三の丸に位置したことから付近には前田利家をはじめ、宇喜多秀家、細川忠興など多くの武将が屋敷を構えていました。特に秀頼公、母淀殿の崇敬は篤く社領500石(南玉造町;現・玉造本町)を寄進され、当時大坂城内で行われた多くの神事に当神社の神職が携わっていました。
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慶長八年(1603)三月には当時の奉行であった片桐且元、加藤嘉明に命じ当神社を復興され、その際建てられた石鳥居も境内に現存し、淀殿と秀頼公を結ぶ胞衣(卵膜や胎盤など)を祀る胞衣塚大明神も鎮座しています。
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このゆかりの地に真実の歴史を伝承する為、史料をもとに宮内庁などの協力を得て、当時を偲ばせる「摂関家」に相応しい衣冠束帯姿の秀頼公を再現致しました。」
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大阪城 山里丸
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大坂城の極楽橋を渡り、本丸へ入る途中にある区画に石碑がひっそり佇んでいます。
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マップでいうと③の付近にある「山里丸」と呼ばれる場所にかつて芦田郭という櫓が存在し、炎上している天守から炎を避けるため秀頼公、淀殿、千姫、家臣たちが避難していました。その後、協議し千姫は徳川側へ逃がされました。
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「慶長20年(=元和元年1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓に潜み、自害したと多くの記録が伝えている。それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市手によりこの記念碑が建てられた。」
大阪の陣ゆかりの聖地を読み返したい方はその①へ