【大阪府】後鳥羽上皇・楠木正成・五右衛門・将棋駒ゆかりの地/三島郡島本町

JR西日本 島本駅

大阪府三島郡島本町桜井にある西日本東海道本線の駅。平成20年に新駅として誕生した綺麗な鉄筋の駅舎です。隣に「桜井駅跡史跡公園」があります。

「奈良時代のはじめ、平城京と各地を結ぶ交通路を整備するために駅(うまや)が設置された。そのうち京から西国へ向かう道筋に設置された駅の一つに「摂津国嶋上郡大原駅」が続日本紀に記されており、これが桜井駅のことを指すものと考えられている。

駅のはじまり

大化の改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配置した役所のことで、30里(当時の1里は約530mで30里は約16km)ごとに設けられました。

京と山陽道をつなぐ道は西国街道と呼ばれ、古来栄えた街道筋であるが、桜井駅の実態についてはよく分かっていない。しかし、延元元年(1336)足利尊氏の大軍を迎え討つために京都を発った楠木正成が、桜井駅で長子の正行に遺訓を残して河内へと引き返らせたことが太平記に記され、桜井駅は「楠公父子訣別の場」として広く知られるようになった。

楠公父子訣別の碑

史跡公園内には「楠公父子訣別之碑」が建っています。こちらは南北朝時代に南朝側(宮方)として有名な忠臣楠正成・正行父子が別れた「桜井の別れ」の地で「太平記」ゆかりの史跡です。

桜井の別れ(太平記第16巻:兵庫への下向の事より)

京へ攻めのぼった北朝側の足利尊氏は官軍の反撃に遭い九州へ落ち延びましたが、勢力を回復するや大軍を擁し再び京を目指して進軍。南朝側の後醍醐天皇より賜った勾当内侍(妻)との別れを惜しんでいた新田義貞公は迎え撃つ為に兵庫へ向かいました。後醍醐天皇は正成公を召して「急ぎ兵庫へ下向し義貞公を援護するよう」と命じました。

足利勢の15万もの予想外の大軍を前にして、疲労困憊で少数の南朝側では勝ち目がない。そう感じた戦の天才正成公は、天皇は比叡山へ臨幸していただいた後、京へ呼び戻した新田勢と河内からの楠木勢とで敵を挟み撃ちする策を提案します。後醍醐天皇も「戦のことは武士に任せる」と一度は了承なされましたが、坊門宰相清忠が強く反対し、結局、兵庫へ下向する事になりました。

「討死せよとのご命令でありましょう」と死を覚悟した楠正成公は、その日のうちに500騎で京を立ち、兵庫(湊川の戦い)へ向かました。その途中、立ち寄った島本町の桜井宿にて、お供をしていた十一歳になる我が子、正行公に国許へ帰るよう命じ涙ながらに教訓を遺しました。

楠木正成公

獅子は、子を産んで三日すると万仭の高さの岸壁から、子を投げ落とすのであるが、もしその子に獅子としての天分が備わっていれば、何も教えずとも宙返りをして死ぬ事はないと言われている。ましてお前はもう十歳を過ぎている。

楠木正成公

今度の合戦は天下分け目の戦になるだろうから、今生のお前の顔を見るのはこれが最後であろう。正成が討死したと聞いたら、天下は必ず将軍のものになると心得なさい。しかし、世の中がそうなろうとも、その場だけの命を助かろうとして長年にわたる忠節を捨てて降参し、道義にもとる振る舞いをしてはならない。

楠木正成公

一族郎党のうち、一人でも生き残っている間は、金剛山(本拠)に立て籠もって戦い、名誉を後の代に残しなさい。これがお前にできる孝行だと考えよ。

涙をぬぐいながら、言い聞かせ天皇から賜った「菊の紋章」の入った刀を形見として渡しました。その見た周りの武士たちは、皆涙を流しました。

「大正二年(1912)七月に献碑式典が行われました。題字は陸軍大将乃木希典の書で、献碑作業は工兵第四大隊が務めました。」

この史跡公園には「旗立松」(はたたてまつ)があります。「旗掛松・子別れ松とも呼んでいます。西国街道の端にある枝を拡げた老松のもとに駒を止め、楠父子が訣別をしたと伝えられています。明治三十年(1897)に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存しました。」南北朝ファンなら一度は訪れたい場所です。

水無瀬離宮みなせりきゅう

水無瀬離宮とは、鎌倉時代の正治元年(1199)に後鳥羽上皇により造営された御所と庭園の事です。建保四年(1216)に起きた洪水で建物が流されてしまい別の場所に建て替えられました。第82代後鳥羽上皇は「新古今和歌集」を編纂されるなど歌人として高明でしたが「承久の乱」に敗れ、隠岐島に流され同地で崩御されました。写真:後鳥羽天皇像(水無瀬神宮所蔵)

周辺には、建物や庭園の遺構があリます。住宅地の中で入れないような気もするので「水無瀬神宮」へ行ってみましょう。

水無瀬神宮みなせじんぐう

「水無瀬神宮」。こちらは、水無瀬離宮の跡に建っている神社。横に駐車場があります。

その頃を描いた絵図がありますが、かなり大きな庭園だったようです。絵図;島本町歴史資料館

「水無瀬神宮が造営されたのは、後鳥羽上皇を弔うため、生前こよなく愛された水無瀬離宮の跡に建てられた御影堂がはじまりと伝えられています。当神宮には似絵の名手藤原信実によると言われる国宝の後鳥羽天皇像をはじめ、数多くの絵画・文書類が所蔵されています。建造物では、豊臣秀吉が家臣の福島正則に造営を命じ寄進した客殿や後水尾天皇が愛好された茶室が国の重要文化財に指定されています。」

水無瀬駒(将棋ゆかり)

「水無瀬駒」は、水無瀬家で作られた将棋駒の呼び方で、約400年以上前安土桃山時代の水無瀬家13代能筆であった水無瀬兼成卿が文字を書き、89歳で亡くなるまでに、中象戯(駒数92枚)大象戯(駒数108枚)を始めとして、大々象戯(駒数164枚)摩可大々象戯(駒数192枚)の他に駒数実に354枚に及ぶ大将棊等々737組の駒を製作しました。

駒の譲渡先には後陽成天皇、正親町上皇、関白豊臣秀次、将軍足利義昭、公家、大名、高名な武将など、徳川家康には53組もの駒が納められました。駒は高級材質で知られる黄楊で作られ、先が細く、手前が肉厚幅広な現在の駒の形のルーツとして兼成卿が確立させ、作者と製作年が特定できる最古の将棋駒であり、以後高級な駒の形はこれに倣っています。

石川五右衛門ゆかりの門

鳥居で一礼し中へ進むと門があります。こちらが、あの大盗賊「石川五右衛門ゆかりの門」。石川五右衛門は伊賀生まれで忍術を学び、京へ出て数々の大名屋敷や蔵に忍び込み、盗みを繰り返した大盗賊。最後は伏見城で秀吉公の香炉を盗もうとして捕まり釜茹での刑になった悪党でしたが、一方では大名ばかりを狙うので〝義賊〟と庶民から呼ばれました。

「文禄年間(380年前)、の大盗賊石川五右衛門が当神宮の神宝の太刀を盗まんと数日間忍びうかがうも神威にうたれ、足一歩も門内に入れず、この門柱に手形を残し立ち去ったと伝えらる。(この門薬医門造りと称す)」とあります。上の網で守られた所にあるようですが、手形はハッキリとは見えませんでした。

こちらは境内にある「都忘れの菊」「順徳天皇は承久の変にて佐渡に遷せられ、こよなく水無瀬の里を愛され殊の外菊花を好まれた父君後鳥羽上皇を偲び行在所に咲く可憐な野菊を「都忘れの菊」と命名し佐渡より移植したものです。」写真:順徳天皇(宮内庁、)

いかにして 契りおきけん白菊を 都忘れと 名づくるもうし

御朱印も多数あります。水に因んで「水おみくじ」もあります。

最寄りの立ち寄りスポット

島本町立歴史資料館

JR島本駅前にある「島本町立歴史資料館」。日本家屋で屋根瓦が立派なこちらの建物には、島本町の特に水無瀬離宮に関する史料や農機具などの展示がされています。

建物の横には、水無瀬離宮の一部庭園を復元した屋外展示があります。

後鳥羽上皇にまつわる史料もありました。個人的にお気に入りの手印です。そのほかにジオラマや年表などもあります。営業時間は9:30〜17:00まで。月曜日が休館日です。

「御財印」というものもありました。

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