山形県の北西部に位置する山形県第二の都市鶴岡市。その市街地中央部に位置する平山城「鶴ヶ岡城跡」。現在は天守閣や櫓などは無く「鶴岡公園」として整備されています。

周りには無料駐車場があり、レンタカーで訪問する際は便利です。ぐるっとお城を囲むお堀が健在で、その周りを道路が一周囲んでいます。

こちらの地域は地下水が利用されているようで、地下水位観測用の井戸があり現在の水位が分かるように表示されています。珍しいですね。

二の丸には噴水などがあり市民の癒しの空間となっています。特に夏場はとても綺麗です。二の丸を一周散策して本丸へ向かいます。

二の丸から本丸を眺めると、何やら赤い丸い屋根の洋館らしき建物が見えます。いったい何の建物なのでしょうか。

この日本家屋の瓦に白い外壁と窓の建物は「大賓館(だいほうかん)」。「大正天皇の即位を記念して創建されたもので、大正四年(1915)十月に完成、十一月十日即位の日に開館、物産陳列城、図書館等として使用された。「大寶館」の名称は、易経の「天子の位を大寶という」によって名付けられた。

建物はオランダバロック風を思わせる窓とルネッサンス風のドーム風のドームをのせた様式で、赤い尖塔と白亜の殿堂として大正建築を留めていることから、昭和五十六年一月、市の有形文化財に指定された。現在は郷土人物資料展施設として使用されている。」とあります。中に有料で入れるようです。

大手門へ向かう途中にある「金峯石(きんぽういし)」。「庄内平野の南端に位置している金峯山(標高471m)は、日本列島の深成岩の花崗岩質の岩石からなり、金峯山から切り出された花崗岩は「金峯石」と呼ばれる。江戸時代から近年まで石碑、橋脚、暮石、土台石などに使用され、山内には採石場の跡が今も残る。

天和三年(1683)城内角櫓の石垣復旧に使われた金峯石は、山から切り出された後、舟で青龍寺川を下って大山街道の橋まで運ばれ、そこから動員された数千人の人夫によって大手門外まで運搬された。」どのお城でも石垣を運ぶのに苦労されたようです。
鶴ヶ岡城跡

ぐるっと回ってお城の本丸入口大手門に着きました。白い鳥居の先には荘内神社が御鎮座されていて、そこへ通じる白い参道がとても綺麗です。かつてあったとされる復元案内図もあります。

本丸御殿と四方に櫓が建っていたようです。現在は外堀の半分は埋め立てられましたが、内堀は当時のままのようです。明治維新の戊辰戦争での庄内藩は幕府軍として薩長の新政府軍に最後まで抵抗し戦いましたが降伏。明治八年に建物などは破却されました。
最上氏時代
もともと鶴ヶ岡城は、武藤氏(大泉氏)が本拠地とした大宝寺城でしたが、ライバルであった砂越氏に焼き落とされたため、武藤氏は尾浦城へ移り大宝寺城は尾浦城の支城として利用しました。しかし天正十六年(1588)上杉景勝公に援助された本庄氏の庄内攻めにより、またもや尾浦城と共に焼き払われてしまいました。

関ケ原の合戦の翌年の慶長六年(1601)、東軍だった最上義光公は庄内を加増されると、自らの隠居城とするべく新関因幡守久正に大宝寺城の大改築を行わせました。そして最上川河口の東禅寺城を亀ケ崎城と改名したのに対し、この大宝寺城を「鶴ヶ岡城」と名付け城下の復興に取り掛かりました。写真:最上義光公像(山形城内)

しかし、突然嫡男義康が何者かに殺されたことで、後継者を巡って家中で対立「最上騒動」に発展。これにより最上氏は改易されてしまい、結局義光公は一度も鶴ヶ岡城に入ることはありませんでした。
酒井氏時代

新しく信濃松江藩より「徳川四天王の一人 酒井忠次の孫」酒井忠勝公が庄内藩14万石を治めるに至り鶴ケ岡城へ入城。城の改修と城下町の整備に取り掛かったほか、開墾や治水事業にも力を注ぎ、以後明治維新までの約250年間酒井の殿様が庄内を治めました。

領民たちとともに幾多の困難を乗り越え、水と緑潤う城下町へと変貌した庄内地方。良質な米とそれを全国に運ぶ酒田の北前船で港は賑わい、城下町も豪商が軒を並べ活気が溢れました。
荘内神社

本丸に鎮座されている荘内神社。「荘内」という名は「庄内」に似ていますが、もともと朝廷が所有していた荘園「大泉荘」の内側という意味で、武藤氏が支配していた天正年間の頃から「庄内」と表記するようになったようです。八月でしたので七夕祭りの装飾がとても綺麗でした。

御祭神は、徳川四天王の一人であった初代酒井忠次公、二代家次公、三代忠勝公、九代忠徳公。「元和八年(1622)酒井忠勝公が幕命により信州松江より出羽庄内に移封されて以来、歴代藩主の幕政と領民一同の努力で幾多の困難を乗り越えられ、豊かな国を築かれた。」

長きに亘り平和な時代が続いてきた幕藩体制が終焉し江戸から明治へと時代が移った後に旧藩主家を敬い慕う気持ちをもって庄内一円の人々が真心の浄財を寄進せられ明治十年(1877)鶴ヶ岡城の本丸御殿址に「庄内総鎮守」として創建された。」こちらの神社には宝物殿があり、江戸時代の文化を伝える史料などが展示されています。
幕末期の庄内藩

幕末期の藩主は酒井忠篤公。幕府より江戸市中の取り締まりを命じられ、薩摩藩邸を焼き打ちしたため、新政府軍の攻撃目標となり激戦ののちに降伏。その後、鶴ケ岡城は徹底的に破壊され、忠篤公は永蟄居となりましたが、弟の忠宝(ただみち)公は実高十二万石・家名存続が認められ、最後の庄内藩主となったのち日本の華族となりました。
西郷南洲翁(隆盛公)と庄内の縁

宝物殿にて展示されていました。「戊辰戦争では、旧庄内藩と南洲翁率いる新政府軍とは、敵味方に分かれて戦いました。旧庄内藩は降伏し、厳しい処分を覚悟していたものの寛大な措置をとられました。

それが、南洲翁の指示によることを知った藩主の酒井忠篤や中老の菅実秀など多くの藩士たちは深い感銘を受け、新しい国づくりをめざし、南洲翁に教えを請うため遠く鹿児島まで度々訪れました。そうして「徳の交わり」と言われる心交を重ねました。

南洲翁を縁に、庄内の人々は絆を深め、南洲翁の精神を広めていくことに尽力し、現代の庄内の礎を築きました。」写真:西郷隆盛公像(鹿児島市)

御城印・御朱印

荘内神社では、鶴ヶ岡城の御城印がいただけます。銀色の鶴と松竹梅の透かしが入っていて豪華です。

こちらは荘内神社の御朱印です。

こちらは鶴岡公園前のあるバス停の時刻表です。鶴岡駅から循環バスがあるようです。

鶴ケ岡城の北側交差点付近にある電気屋さん。可愛いぴちょんくんカーが目を引きました。
JR東日本鶴岡駅

最寄りの駅になりますJR東日本鶴岡駅です。駅構内には広い休憩所と観光案内所やコンビニもあり便利な駅だと思います。駅前にはバスロータリーや店舗もあります。