【広島県】本丸を新幹線が貫く海城/三原市三原城

広島県の東部、瀬戸内海が入り込んだ地にある三原市。そこには一風変わったお城・駅があります。

JR西日本 三原駅

JR西日本の山陽新幹線の停車駅である三原駅。一見なんの変哲もない鉄筋コンクリート製のきれいな駅に見えます。在来線の駅でもあり、乗り継ぎで利用する方も多いのではないでしょうか。

瀬戸内海の漁場で獲れたマダコの名産地で、いたる所にユーモラスで可愛いタコのオブジェが飾られています。駅周辺でもタコを使った名物料理の看板が多数見受けられます。

たこが名産品なので駅のコンビニで「三原名物 たこせん』が販売されています。

 一風変わっているのは、改札口横に「三原城 天主台跡」と書かれた案内板があります。駅を出てから先の道案内では?と思いきや、

そこは、すでにそこは天主(天守)台への入口でした。すでに城内だったのです。え?うそ?と思いながらそのまま進んでいくと

お城の石垣とお堀に囲まれた天主台に辿り着きました。櫓などはありませんが立派なお城です。

「国指定史跡 三原城跡」にすでに到着です(笑)。徒歩0分。駅周辺を含め三原城という事です。昭和50年に山陽新幹線開業による高架化により駅とお城と新幹線が合体しました。

 なんと言ってもお城を貫くように新幹線が走っている光景には驚きます。福山城も三の丸にレールが通ってますが、目の前で新幹線が眺められる不思議な気分です。築城主は「三本の矢」で知られる毛利元就公の三男である戦国武将小早川隆景公が、永禄十年(1567)に三原沖の大小の島をつなぎ築城しました。

 城郭は東は湧原川から西は臥熊橋付近まで900m、南北に約700m。この中に本丸、二の丸、三の丸、櫓32、城門14。当時は満潮の際、城の姿が海に浮かんでいる様に見えるため「浮城」と呼ばれていました。豊臣秀吉公や徳川家康公もこの城を訪れ、素晴らしさに感動したと言われています。

 現在は濠と天主台石垣・船入櫓跡・本丸中門跡などが残っています。天主台西側の石垣(北と南の隅)は、古い様相を示しており隆景公が築城したものと思われます。

三原城主 小早川隆景公

天文二年(1533)父は「謀将」「三本の矢」で知られる毛利元就公の三男として安芸の吉田郡山城で生まれ、母な吉川国経の娘。長兄は隆元、次男は元春、三男の徳寿丸は主君である大内義隆公、竹原小早川氏に頼まれ養子となり、元服時に「小早川隆景」と名を改め、沼田小早川氏と同家を継承。兄の元春も吉川氏の養子となり吉川元春となります。(写真:毛利元就公・毛利博物館)

水軍の活躍と大内氏の滅亡

 中国地方の覇権をかけて尼子氏と争っていた大内義隆公でしたが、家臣の陶晴賢らの謀反で自害し家中は混乱します。跡を引き継いだ大内義長(大友晴英)・陶晴賢でしたが、毛利氏と次第に対立し、天文二十二年(1555)「厳島の戦い」へ発展。結果は村上水軍を擁した毛利軍が勝利し、陶晴賢は自害。その後、大内義長(大友晴英)も弘治三年(1557)に長府の功山寺で討たれ大内氏は滅亡。山陰の尼子氏も降し毛利氏はほぼ中国地方を手中に収め大大名に。

三原城を築城へ

 大船団となった水軍の拠点となる基地が必要だとして三原城を築城し、隆景公自身は新高山城へ移りました。先に亡くなった元就公の遺言通り、吉川元春公と小早川隆景公の二人(両川)の弟たちで、当主になった長兄隆元公を支えました(三本の矢)。後に隆元公が亡くなり、隆元公の子の幸鶴丸が、将軍足利義輝の諱一字「輝」を拝領され毛利「輝元」として後継者になりました。(写真:毛利輝元公)

豊臣秀吉公の天下統一

秀吉政権時代には、水軍に「海賊禁止令」が出され、村上水軍たちも散り散りに。隆景公は豊臣五大老の一人となり伊予、九州へ移封されましたが、三原城を改修し隠居城として晩年を過ごした後、慶長二年(1597)亡くなりました。享年65。

関ヶ原の合戦後、福島正則公が広島藩主に

江戸幕府が誕生すると、福島正則公が芸備に入り広島藩初代藩主になり、養子である福島正之が三原城へ入りますが奇行により廃され、また福島正則公自身も幕府から禁じられてた広島城改修を行い信州へ配流されてしまいました。代わって浅野氏が入国。三原城は一国一城令で廃城になるも改修され家老の浅野忠吉公が入り明治維新まで治めました。(写真:広島城)

三原駅構内の観光案内所では、御城印と武将印は販売されています。

ユーモラスで面白い三原城。一度寄ってみてはいかがでしょうか。

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