【滋賀県】明智光秀の居城と穴太衆/大津市 坂本城跡

JR西日本大津駅

JR西日本の東海道本線の途中駅です。こちらから「3番乗り場堅田駅行き」江若交通の路線バスに乗って「石川町」停留所まで約20分。

停留所で降りると、琵琶湖の湖面が広がっています。

琵琶湖が一望できる場所に朱色の鳥居「日吉大社七本柳鳥居」。危ないので鳥居の下は立ち入り禁止になっています。で近くに神が降りるという七本柳の史跡があります。

坂本城址公園

もちろん築城した明智光秀公の像が建っています。公園のように整備されている周りは住宅地ですが、電信柱はシックな色合い。

「われならで 誰かは植えむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風 」

「明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永禄十年(1567)四十歳ごろ織田信長の家臣となる。元亀二年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。

以後およそ十年間、光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、恋歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。」

「この辺りは、かつて三津浜(みつのはま)と呼ばれ、戸津、志津、今津からなるとされるが、現在の比叡辻から唐崎以北までの下阪本の湖岸まで古くから港として栄えた。」

公園の一部は琵琶湖の砂浜が広がりヨシ(アシ)が群生しています。かつては、沢山の桟橋に舟が横付けされていたのでしょう。長い年月で、かつてあった石垣は湖底に沈んでいると思われます。水位が下がると石垣が見えるようです。

坂本城公園から車道を渡り、住宅地へ入って少し歩くと「坂本城址」の石碑が建っています。

「元亀二年(1571)九月の山門(比叡山延暦寺)焼き打ち直後、織田信長は明智光秀に滋賀郡支配を命じるとともに、浜阪本(三津浜)に水城を築かせました。日本最古級の天主がそびえていた坂本城について、当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、天正四年(1576)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と賞賛しています。

坂本城築城の目的は、山門の監視ばかりではなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国美濃と京都とのルートの確保、水運に重要な拠点などが挙げられます。この城は、天正十年六月の山崎の合戦後ののち焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同十四年頃、城主浅野長吉(長政)の時に大津城に移るまでこの地にありました。

明智塚

「この地は明智光秀の坂本城の城内であると推定されている塚の由来に就いては坂本城落城の際に光秀の脇差名刀の郷義弘並宝器物を埋めた跡であり明智一族の墓所であると明智族の悲運もあって鎮魂のため毎年六月十五日祭記」

光秀の腹心 明智弥平次秀満

山崎の合戦で主君の明智光秀公が敗れた事を知った側近の明智秀満(光秀公の娘婿)は、すぐさま守備していた安土城から坂本城へ向かいました。

明智秀満

もはや、武運も尽きた。あとは潔く果てるのみ。

秀満は城中の金銀を部下に与えて逃れさせ、更に国行の太刀吉光の脇差を差し、虚堂の墨蹟などの名物を荷造りし目録を添えて寄せ手の掘一族直政の陣へ送り届けると城に火をかけました。宝物の目録を受けた直政はすぐに城内へ問いただす使者を送りました。

使者

吉広江の脇差が見当たらぬが、いかがされた?

明智秀満

それこそ、主光秀が命にかえて秘蔵した品、いざ死出の旅にある光秀に渡さんがため、秀満自らの腰に差すところである。

そう使者に伝えると天主に上り腹十文字に自刃、一族と共に坂本城と運命を共にしました。そして、このやりとりは後々まで語り草となりました。ちなみに脇差は焼け落ちた跡からは見つかりませんでした。

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)

坂本城から北へ30分ほど歩くと「天台宗 聖衆来迎寺」があります。最寄りのバス停は「来迎寺カネカ前(堅田駅行き路線バス)」。滋賀県大津市比叡辻にある天台宗の寺院で山号は紫雲山。

「当寺は延暦9年(790)伝教大師の開創になる地蔵教院が前身で、長保3年(1001)恵心僧部の弥陀聖衆の感得により、現在の寺号となる。国の文化味重要文化財である本殿、客殿、開山堂、明智光秀が築城した旧坂本城門の表門、森可成の墓など、歴史との関わりの深い寺である。」

こちらが、その「旧坂本城門」です。同時期の安土城は全て消失しましたが、現在でも見られるとても貴重な門です。

境内にある「森可成公の墓」です。森可成公をご存知無くとも「蘭丸の父」と言えばお分かりになるかと思います。桶狭間の戦いや姉川の戦いなどで活躍しました。子の蘭丸(森成利)も織田信長公の家臣。坂本城が平城であったため、西にある宇佐山に宇佐山城を築き居城としました。本能寺の変の時、主君信長公と一緒に討死したのは有名です。

御朱印もいただけます。

穴太衆たちの郷 門前町坂本

聖衆来迎寺から歩いて20分ほどの所にあるJR比叡山坂本駅前の看板「石積みのある門前町坂本」。古来より比叡山延暦寺の門前町として発展しました。ここには叡山の堂宇や石塔の需要に応えるべく移り住んだ石工集団「穴太(あのう)」「穴太衆」がいました。日本の城廓石垣の技法を確立し、全国の城廓を手掛けたのは有名です。

すぐ横には野面積みの石垣が展示されています。「坂本では、町の至る所に石垣を見ることができます。ほとんど手を加えない自然石の石面を巧みに利用したこの石積みは「穴太衆積み」と言われています。一般に「穴太衆」と呼ばれる。坂本穴太を本拠地とした石工集団の技術によって築かれました。」

「石積みの技としては、大きく分けて自然石をなんの加工もせず、そのまま積む「野面積み」と石の面を槌で叩いて大雑把に加工した石を組み合わせて積む「打ち込みハギ」。のみで加工した石を隙間なく組み合わせて積む「切り込みハギ」の三種類あると言われています。

「穴太衆積み」は「野面積み」を代表する積み方で、一見粗野に見えますが、堅牢さは比類ないものがあります。その秘密は、積み石の比重のかけ方にあって、表面から1/3奥のところに重力がかかるように設計されており、さらに土の水ぶくれによる崩壊を防ぐため、石垣の奥に栗石層、その奥に小石を詰めていくなどして排水を良くする工夫が施されています。」写真:江戸城和田倉門跡

このように目に見えない部分に穴太衆積みならではの技が潜んでおり、それが何百年の風雪に耐え得る堅牢さを生み出しています。隙間に石を詰める事で敵兵を登れない様にする効果もあり、高い石垣には「武者返し」「忍者返し」など様々なアレンジも派生しました。写真:熊本城

石垣の横には伝教大師最澄の生誕地(三津)なので像があります。平安時代初期の人物で、唐に渡り密教を学び、帰国後、日本での天台宗の開祖となり比叡山延暦寺を開いた人です。真言宗の空海とよく並んで紹介されますね。

JR西日本比叡山坂本駅

ホームが二階にありますので、展望台のように琵琶湖が一望でき、爽快な風景が眺められます。バスやタクシーのロータリーもあります。右の建物にはトイレ・休憩所になってます。

琵琶湖畔は遮る障害物が無いため、雨や横風が強く吹く日もありますのでご注意ください。(マリオが旗にジャンプしに来そう)

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