【熊本県】相撲の神様と不知火型の横綱/熊本市・宇土市・大津町

熊本市街の中心部にご鎮座する藤崎八旛宮。熊本総鎮守として毎年初詣には多くの参拝客で賑わうこちらの神社の参道にあるマンションの一角に

「吉田司家跡」という解説板が壁に設置されています。

〝相撲の神様〟吉田司家

平安時代後期、中断していた宮中での朝廷相撲節会が再興されるに至り、第80代後鳥羽天皇(治承四年〜延応元年:1180〜1239)は当時越前國に住んでいた吉田豊後守家次を召され、

後鳥羽天皇

国技の古き伝統を守り伝えよ。

と訓をいただき相撲行司官に任ぜられました。その際「追風」の名と唐団扇(獅子王団扇)を下賜されたと伝わります。以来、一時中断もありましたが古来の相撲の伝統を守り抜き、

戦国時代には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からも団扇を授与されました。その後、吉田司家は肥後細川藩に武家奉公しのちに、第十九代追風吉田善左衛門が「横綱」という番付最高位を考案して以降、横綱はこの「相撲の神様」吉田司家を訪れ当主から免状をもらう習わしが近年の横綱審議委員会が出来るまで続いていました。写真:織田信長公上覧相撲(両国国技館内)

現在は熊本阿蘇内牧へ移転したそうですが、その後の詳しい事は分かりません。

二人の不知火横綱力士

初代横綱明石志賀之助から歴史を彩った横綱たち。寛政元年(1789)横綱制度が始まって以来、熊本では二人の名横綱が生まれました。「不知火諾衛門(しらぬいだくえもん)」と「不知火光衛門(しらぬいこうえもん)」。共に不知火と名を持つ力士と由来を知るために熊本県宇土市へ向かいました。

第八代横綱不知火諾右衛門

墓所は宇土市西岡神社近くにあります。不知火諾右衛門:本名近久信次さんは、享和元年(1801)宇土郡栗崎村で生まれました。幼少期から地元の宮相撲で活躍、力持ちで知られていました。文政六年(1823)に大坂相撲の湊由良右衛門に入門。

文政十三年には松江藩松平家のお抱え力士となって江戸相撲に挑戦し、天保八年(1837)の新入幕を機に四股名を濃錦里(のぎのさと)諾右衛門と改めて、天保十年には、当時の幕内最上位だった大関に昇進しました。

この活躍により熊本藩のお抱え力士となり「不知火諾右衛門」に改名し、天保十一年に吉田司家から横綱免許を授けられ、第八代横綱になりました。

天保十四年に江戸城内で開催された第十二代将軍徳川家慶の上覧相撲では、結びの一番で東大関の劔山谷右衛門を破り、勝った不知火には将軍から弓が授けられ、土俵上で豪快な弓取りを披露したと伝えられています。

この時の土俵入りでは、熊本出身の黒雲(露払い)と高根山(太刀持ち)を従えて、両腕を大きく左右に開いてせり上がる型を披露したと伝えられ、これが現在の〝不知火型〟と呼ばれている横綱土俵入りの型の一つで不知火諾右衛門が創始者と言われています。

その後は天保十五年に引退し、その後は大坂に戻り年寄り・湊を襲名して大坂相撲の再興と門弟力士の育成に尽力しました。嘉永七年(1854)に大坂で亡くなり、この宇土市に分骨されました。享年五十四歳。

故郷宇土の誇り不知火諾右衛門さんの墓所は、現在も宇土市民によって大切に、綺麗に、保たれています。天災が続く故郷に「がんばろう!」と諾右衛門さんのエールが聞こえてきそうでした。

第十一代横綱不知火光衛門の墓所

もう一人の不知火光右衛門さんのお墓は、菊池郡大津町下町の道路沿いに立派な力士像と共に建っています。不知火光右衛門:本名原野峰松さんは、文政八年(1825)合志郡陣内村下町に生まれました。

草相撲で怪力と妙手、早技は近隣に及ぶ者がいなく、下町村の郷士坂本十郎左衛門から誘われ大坂にに出て郷土の先輩、湊(不知火諾右衛門)の弟子となって修行し、嘉永二年(1849)江戸にのぼり殿(しんがり)峰五郎の名で同三年11月幕下に付け出されました。

安政元年(1854)十両から西前頭七枚目に入幕、細川藩のお抱え力士となり、翌年〝不知火光右衛門〟と改名。七年には小結、文久二年(1862)に大関、三年十一月吉田司家から11人目の横綱免許を受けました。三十九歳の時です。

身長176cm124kg。その土俵入りは先代不知火諾右衛門が創始した不知火型をさらに〝華麗〟にしたもので巧妙を極め「白鶴の翼を張れるがごとし」の形容され、また美男子だったこともあり、錦絵が飛ぶように売れました。(錦絵は大津町歴史文化伝承館に展示されています)

その後の6年間12場所在位し、元治元年(1864)四月と十月に連続優勝しました。ライバルには雲龍(第十代横綱)、鬼面山(十二代横綱)、陣幕(十三代横綱)がおり、激動の明治二年(1869)に引退、幕内の在位は14年で勝率は七割七分三厘。

引退後は、先代同様大坂に帰って頭取(年寄り)二代目不知火諾右衛門と名乗り不知火部屋を創立して年寄りとして大阪相撲に貢献し、元治十二年二月二十四日五十五歳で没しました。お墓は大阪市天王寺区下寺町遊行寺(円成院)と生地の大津町下町に。

当時の地元の様子

田園風景が広がる上益城郡甲佐町にご鎮座されている「早川厳島神社」。その境内に当時のフィーバーぶりの一端が知れる像がありました。

長年の震災で像が壊れてしまっていますが、確かに二つの力士像が建っていました。もちろん、この二力士には不知火関。左はおそらく不知火型の土俵入りシーン。

「不知火型土俵入りの創始者宇土轟村出身の第八代不知火諾右衛門。一八四〇年横綱昇進を期に第十一代将軍徳川家慶上覧大相撲とする。当時地元達への発憤の祈願として再拝二像目を寄進する。」テレビもラジオも無い時代でしたが、地元の熱狂振りは想像に難くありません。

自然の神秘〝不知火〟

全国に轟かせた〝不知火〟という一風変わった名。近年、漫画やドラマなどで一度は聞かれた方もおられると思いますが、宇土郡不知火地区に起こる神秘的な現象が元となります。ゆかりの永尾劔神社を訪ねてみました。国道266号線を通るとノボリと看板が建っている入口から

岸壁沿いにある神社の下に駐車場案内がありました。

石段を登ると「永尾劔(ながおつるぎ)神社」の境内が見えてきました。土俵もあり、かつては子供相撲が開かれていた名残りがあります。創建は和銅六年(713)と古く、元命天皇の御代に国郡鎮護の為に創建されました。

旧暦8月1日(八朔)の未明、八代海(不知火海)の海上に「不知火」と呼ばれる不思議な火が現れます。不知火は、漁火や対岸の街明かりなどの光源が、日中に暖められた干潟上の暖気と夜間の放射冷却による冷気からなる複雑な空気層により、異常屈折して起こる蜃気楼現象の一種とされています。

八代海の干潟の形状、潮の干満差、風向と風速、海水面の気温分布など、様々な要件が満たされて初めて現れる自然現象です。ちなみに令和八年(2026)は九月十日〜十一日の未明に現れる予定でした。生で見てみたいです。

神社前の堤防から眺める海に浮かぶ海中鳥居も名物で整備されています。

この日は干潮気味で、残念ながら海中鳥居の光景は見られませんでした。でも、そんなにがっかりする事はありません。この陸続きの状態は逆にチャンスでもあります。

海の神様〝わだつみさま〟

「永尾劔神社の主祭神である〝海童神(わだつみのかみ)が、大きなエイの背中に乗って現れた海の入り口にたつ海中鳥居は、引潮の時だけ渡ってお参りする事ができます。

この数時間だけ現れる参道を通り、拝殿に用意してあるエイの折り紙に願いを込めて、鳥居下の海底にお供えください。エイが願いを届けてくれます。」(紙は純植物性の素材で環境にやさしい無公害のエコペーパーを使用しています。)確かに参拝する方も多かった。

拝殿から中へ入るとありました。すでに満潮の時に来られた方々のお供えが山盛りになってます。エイの形をしているのが可愛いですが、早速願い事を書いてイザ鳥居へ。

鳥居の前へ。波は穏やかですが、足元がゴツゴツしてたりカニさんがウロウロしていますので、踏み潰さないように注意してください。

海底にお供えしました。ふわぁと紙が広がりますが、海の神様へ届けてね。頑張れ〜。

御朱印

御朱印もいただけます。各500円です。〝神秘の火 不知火〟パワースポット永尾劔神社をご紹介しました。

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