【長崎県】キリシタン大名と宣教師の野望/大村市玖島城(大村)跡

長崎県大村市にある玖島城跡へ行くには、JR大村駅または大村バスターミナルより「諫早駅前行き」「向木場入口行」のバスに乗って「大村公園」で降りれば、玖島城跡はもう目の前。訪れた日は桜が満開で、多くの露店と花見客で賑わってました。

長崎県大村市にある〝玖島城〟は大村城とも呼ばれ、昔は大村湾に突き出た島で周囲が1.6キロある海城でした。

現在は埋め立てにより陸続きになり、国道も敷かれ往来が便利になり大村公園として市民の憩いの場になっています。

「角堀跡、玖島城は海と川を天然の堀として築かれていますが、正面と側面の守りを強化する内堀として角堀、長堀、南堀が設けられました。」

その名の通り長く続く〝長堀〟。埋め立てられたお堀跡には、たくさんの菖蒲が植えられ毎年開花の時期になると大勢の人が鑑賞に訪れます。

城内には菖蒲公園があり、〝肥後系〟などの菖蒲が沢山植えられいます。池と花壇も整備され季節ごとに美しい景色を見せてくれます。

板敷櫓台いたじきやぐらだい

玖島城には天守閣は無く、館が建てられましたが、明治初期に全て取り壊されました。現在は復元され、中へ入れる板敷櫓台が当時を偲ばせます。

〝板敷〟とは、この辺りの地名から付けられており、築かれた大村湾を望む展望の名所です。

「玖島城は慶長四年(1599)大村家第19代大村喜前(よしあき)公により築城され、慶長十九年(1614)次の純頼の代に大改修が行われました。その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。」

それまでの居城だった「三城城」は平山城でしたが、囲まれると弱く父が苦労していたたため、強固で海運にも適した海城(島)にすると喜前公は決めました。写真:板敷櫓台内のジオラマ

この大改修にあたっては肥後の城主で、城造りの名人と言われる加藤清正公に意見を求めたという記録も残されています。写真:加藤清正公肖像画

築城主大村藩初代藩主 大村喜前公おおむらよしあきこう

大村喜前は永禄十二年(1569)、キリシタン大名純忠の長男、二歳で受洗し洗礼名:ドン・サンチョと称しました。一時期、佐賀の龍造寺隆信のもとで人質として過ごしました。純忠の没後に第19代当主として大村家を相続し、秀吉公の九州攻めや朝鮮出兵に従軍し戦功をたてました。

秀吉公の死後には天下の不穏な情勢に備えて、慶長四年(1599)に玖島城を築きました。関ヶ原の戦いでは東軍側として活躍、徳川幕府が開かれると領地を安堵され、初代藩主に就きます。一方、大村領であった長崎外町と幕領浦上の替地にイエスズ会が関わったと疑い、いち早く棄教して日蓮宗に改宗し、本経寺など数多くの社寺を建立しました。

慶長十二年(1607)には「御一門払い」と呼ばれる家臣団の改革を行い、藩主権力を強化し、家臣団の結束を強めるとともに、二回にわたる領内の検地で財政基盤を強化するなど、藩政の基礎固めを進め、宣教師とキリシタンの不法行為の取り締まりに乗り出しますが、元和二年(1616)城内にて毒殺されました。

その後、喜前公の子の純頼公が、玖島城の改築工事を引き継ぎ完成させましたが、元和五年(1619)純頼公も毒殺されてしまいました。その後は、21代純信公から代々大村氏が明治維新まで大村藩を存続させました。

本丸跡 大村神社

本丸には「大村神社」も御鎮座されております。由緒ある古社で御祭神は大村の神。御朱印も数種類あります。桜の時期でしたので境内では〝大村桜〟という品種の八重桜が咲いていました。

神社の横に建つ「藩主の御居間跡の碑」が、かつての住まいの面影を偲ばせます。

大村氏の歴史

大村氏は、藤原純友の孫で正暦五年(994)に伊予国大洲から肥前国彼杵郡大村に下向して〝大村〟と称したと伝えられていましたが、最近の研究で佐賀県鹿島市大村方にいた豪族ではないかと言われています。鎌倉幕府から地頭を任されて以来、在地領主となり大村を発展させました。

鎌倉時代に起きた元寇では、大村親澄・澄宗が壱岐瀬戸浦・博多で活躍し、鎌倉幕府より褒美の手紙をもらいました。南北朝時代では、九州南朝側に属し肥後の菊池氏と共に北朝側と戦いました。その後大村氏が大きな転換期を迎えたのは十八代の大村純忠公の時代でした。

その時代の九州は、菊池氏・少弐氏・千葉氏が衰退し、薩摩の島津氏・豊前の大友氏・肥前の龍造寺氏が周辺の小豪族たちを呑み込みながら急速に勢力を拡大。各地では戦国時代の波が相次ぎました。

大村では17代当主大村純前(すみあき)公が、肥前国高来郡の領主有馬晴純の次男を養子として迎え18代当主大村純忠公として家督を継承させました。天文十九年(1550)の事です。

このとき本来なら大村純前公の二男で跡を継ぐはずが、武雄の後藤氏へ養子に出された後藤(大村)貴明公は納得いかず、反大村氏(有馬氏)勢力として立ち上がります。のちに横瀬浦の港を襲撃したり、純忠公の居城である三城城を松浦氏と共に攻めこみました。(三城七騎籠り)

ヨーロッパでは大航海時代

明応元年(1492)に航海士のコロンブスがアメリカ大陸を発見した事をきっかけに、欧州各国では世界へ進出し植民地支配で国土を広げていく〝大航海時代〟が訪れました。特に水軍帝国のスペインとポルトガルの二カ国による熾烈な競争が繰り広げられました。

ポルトガルはインドのゴアを占領後、マカオを拠点にして産物を本国へ運び商売をし、スペインは広大なアメリカ大陸へ進出し中南米の殆どの国を領土にし、その後フィリピンのルソン島を占拠し拠点としました。過熱する両国は紛争を避けるため、世界を二つに分け、それぞれの地域で優先的に占領できる取り決めをローマ教皇の許可のもと条約を結びました。

日本では天文十二年(1543)マカオから上海へ向かう中国船が種子島へ漂着、乗船していたポルトガル人により火縄銃が伝来。それをきっかけに天文十八年(1549)、イエズス会インドゴア管区所属のフランシスコ・ザビエルが鹿児島へ来航し、キリスト教が伝来しました。

イエズス会とは、元々スペインの貴族出身の元軍人イグナチオ・デ・ロヨラが同志七人と創設した修道会で、その同志の一人であるザビエルは、マラッカ(マレーシア)で〝やじろう〟という日本人と出会い、日本へ行く事を決めました。写真:ザビエル肖像画

日本での布教活動

その後のザビエルは、大内義隆や大友宗麟など九州の領主と接触し平戸、山口、京都、大分など、主に西日本を中心に二年ほど活動をしました。その後もイエズス会士の宣教師や武器商人が次々と訪れ、教会や病院、孤児院などを建てながら布教していきました。もちろん味方になるように協力させるためです。写真:大内義隆公肖像画

「清貧・禁欲・服従」の誓いのもと軍事的な規律と神秘的な瞑想修行をもって世界進出するイエズス会の活動は、国々の文化レベルに合わせるやり方で、南米諸国では武力による支配。日本など文化レベルが高い国では強引なやり方を避け、進んだ西洋の兵器や貿易による富と布教政策で服従させる方法をとりました。

日本初のキリシタン大名 大村純忠

宣教師たちは、拠点となる港を求め松浦氏が治める平戸へ向かいますが、殺傷トラブルを起こし追放され困り果てます。そこへ興味を示していた大村氏が接近し南蛮貿易の交渉を始めました。理由は諸説ありますが、周辺の豪族からの攻撃に備えるため莫大な資金と近代兵器・火薬も必要だったためと思われます。

しかし宣教師側から出された条件は〝キリスト教への改宗〟。純忠公は拒み続けましたが、ついには折れ、永禄六年(1563)横瀬浦に建てた教会で家臣たちが見守る中、〝パルトロメウ〟として洗礼を受け日本初のキリシタン大名となりました。

以後横瀬浦を拠点に教会や西洋建築物を次々と建て、南蛮貿易で財を増やし領地を拡大していきました。ライバル後藤氏の襲撃により横瀬浦の港を破壊されますが、新たに長崎港を開港し貿易を再開しました。潤う純忠公ですが、心配していた事がありました。

心配していた悲劇

大村領内では、貿易の条件「神社仏閣・先祖のお墓の破壊」「仏教徒への迫害」「家臣と領民への改宗」はエスカレート。お寺や神社はキリシタンにより燃やされ、神職や僧侶は追放または殺害、改宗しない領民は襲われ追い出されました。そのため仕方なく改宗するしかなく、素直に従う家臣・領民もいましたが、禁教令が出るまで家中で対立騒動が治まりませんでした。

こちらはサンセット通り沿いにある「大日堂と峯阿乗の碑」「天正二年(1574)キリシタンが大村領内の寺や神社を破壊した時、仏教や身の安全を守ろうと山田泉織坊の住職であった峯阿乗が嬉野方面に逃れようとしたところ、キリシタンに見つかり殺され、死骸は便所に埋められました。

その後阿乗の霊魂が大村家に祟ったと言われ、正保四年(1647)五月、三代藩主大村純信の時、大村彦右衛門純勝が、阿乗の死体を埋めた所に大日堂を建てた。」全国のキリシタン十五万人中、大村領だけで六万人以上いたとされています。いかに影響が深刻だったのか分かります。

キリシタン大名だった大友宗麟や小西行長などの地でも、同じような史跡が多々あります。九州平定のため博多箱崎に訪れた秀吉公のもとには、それらの被害に苦しむ僧侶・領民からの懇願が相次ぐだけでなく、宣教師による討幕計画まで報告され、危機感を募らせた秀吉公は天正十五年(1587年)伴天連追放令を施行しました。写真:筥崎宮(福岡)・豊臣秀吉公肖像画

天正遣欧少年使節顕彰之像

天正十五年(1582)イエズス会のヴァリニャーノ神父の発案で、教会学校で学んだ少年四人がキリシタン大名〝有馬晴信〟〝大友宗麟〟〝大村純忠〟の代役としてローマ教皇に拝謁しました。現地では大歓迎だったそうですが、目的は⒈イエズス会の名声をあげる。2.今後の布教活動費の援助。3.進んだ西洋文明を見せつけ本国で広めさせる為。

しかし、四人が帰って来た八年後の日本は、すっかり変わっていました。キリスト教は禁止され、有馬晴信、大友宗麟もすでに亡くなっており、彼らの活動の場はもうありませんでした。仕方なく四人は棄教したり・追放されたり、隠れて活動し捕らえられ処刑されたりしました。

棄教令や鎖国政策で幕府が外交を監視・管理した事により、不法な入国や滞在、武器の密貿易など多くの犯罪が防がれ、国内の混乱も減り、何より植民地化を阻止する事ができました。この事は日本にとって大きな救いで、後にドイツ人医師ケンペスは「とても妥当で当たり前の処置」と称えました。

JR九州 大村駅

最寄りの駅はJR九州大村線の途中駅「JR大村駅」。大正七年に改築された駅舎にレトロ感が漂います。右隣にコンビニもあります。

駅前通りにある「おおむら観光案内所」。こちらには地元の特産物やお土産品が販売されています。名物は「塩ゆで落花生」。文字通り殻付きのまま塩茹でされた柔らかいピーナッツで、おつまみ感覚で美味しかったです。

県営バスターミナル

JR大村駅の向かい側にある「県営バスターミナル」。こちらも昭和感があるレトロな雰囲気の大きなバス待合所です。

中もすごくレトロです。少し暗くて本当にバスが来るかと思っていましたが、ちゃんとバスが停まってくれる待合所でした。

大村市歴史資料館

JR大村駅から徒歩でいける距離にある「大村市歴史資料館」。大村市の歴史が展示物で解説されています。結構広くて綺麗な館内でした。●営業時間:10:00〜18:00まで ●休館日:月曜日 入館無料

好武城跡よしたけじょうあと

大村市寿古町。「JR大村車輌基地」から少し離れた田園地帯に、少し盛り上がった丘陵があります。ここには、「好武城跡」という城がかつてありました。

「戦国時代、大村純治は、有馬氏の攻撃に備えるため本城を築き、久原城よりここに移った」とあります。当時島原一帯を支配していた有馬貴純が勢力を拡大し、毎年のように領内に侵攻してきていたので、大村氏15代当主大村純治は、かなり疲弊していた事が伺えます。

松原八幡神社まつばらはちまんじんじゃ

JR松原駅近くに御鎮座されてる松原八幡神社。「松原村の総鎮守で【博多日記】の正慶二年(1233)に登場することから、鎌倉時代の末は既にあったと考えられます。天正二年(1574)にキリシタンにより破壊されますが江戸時代に再興されました

。中岳の合戦に敗れた領主大村純伊が、八月十五日に領地回復の祈願をした伝承から毎年八月十五日に例祭を行っていましたが、明治以降は、十一月五日に行われてきました。この例祭は「松原くんち」というお祭りが毎年十一月中旬に行われています。」

大村純伊(すみこれ)は、大村純治の嫡子で16代当主。父が好武城を築き攻撃に備えた因縁の有馬氏とついに「中岳の合戦」で激突しました。場所は諫早にある飯盛山の麓で有馬貴純勢は2000、対する大村純伊勢は、わずか700。結果は、勝ち目がないとみたのか大村勢内で寝返りがあり有馬勢の大勝利に終わりました。

敗走した純伊公は、各地に潜伏しながら有馬勢の追跡をかわし逃がれ続けました。その間、有馬氏に大村領は奪われますが、七年後の文明十二年(1480)、純伊公は西肥前の豪族を味方に有馬勢をなぎ倒し和睦させ領地と城を奪い返しました。

大村の領民たちは大喜びで連日お祭り騒ぎ、そのときに振る舞った寿司が大村寿司の始まりと言われています。ですが結局、大村氏の養子に入った有馬氏によって実質大村領を奪い返される形になりました。

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