【長崎県】神風が吹いた島/松浦市神崎海底遺跡

日本の歴史史上最大の国難で、鎌倉幕府滅亡の遠縁とも言われた二度にわたる「元寇」

その史跡を追って壱岐島の次に訪れたのは長崎県北部の松浦市。佐賀県西部の伊万里市との県境にある「鷹島」。こちらには元寇に関する数多くの史跡や資料館もあります。

 伊万里市周辺は勾配の急な坂が多く、お店やガソリンスタンドが少ないので初めて車で向かう際には前もって十分な給油をオススメします。結構心配になりました。さて、こちらの橋は鷹島大橋。

まず鷹島の入口に掛かる大きな「鷹島大橋」を渡りと鷹島へと入ります。細く見えますが路線バスも通っていて、とても綺麗で眺めも爽快な橋です。

松浦市鷹島町へ到着です。橋を渡るとすぐ左側に「道の駅鷹ら島」があります。

ここで休憩しながら計画を立てると良いでしょう。

松浦市はアジの漁獲量が日本一という事で市なので道の駅には「アジフライの聖地」の像があります。

名物はアジフライバーガーです。キャベツとアジフライが挟んである名物の「アジフライバーガー」が売っています。

道の駅は大きくはありませんが、マグロの解体ショーも行われていました。

さて、道の駅を通り過ぎ目的地へ。島なので細い道が続きます。民家を通り過ぎた先に

目的地の駐車場へ到着しました。車数台が停められる広さです。

地元の方から「小太郎様」と呼ばれるこの方は、対馬国守護宗助国の家臣だった対馬小太郎さんのお墓です。知らない方のために石碑もあります。

「文永十一年十月五日、元軍対馬に侵入、守護代宗助国の命に依り風浪を冒して博多に上陸、太宰府に急報して使命をはたし本土防衛の将、少弐景資の麾下(きか=軍隊の指揮者)と成り弘安四年鷹島に転戦し此処に陣没「我が屍を埋むるに対馬を望むべき丘陵においてせよ」と北をのぞめば黒島沖の島、遠くは壱岐の島玄海の汐路はるかに雲か霞か対馬の故山がしのばれる」と刻まれています。お参りしました。

続いて向かったのは、

「開田の七人塚」。文永の役(1274)の時、元軍が鷹島東浜から上陸して来ました。開田付近の一軒家には一家八人が隠れていましたが、不幸にも飼っていた鶏が鳴いたため「人が住んでるはずだ」と元軍に山中を探され、八人家族のうち七人が殺され、五右衛門風呂の灰だめに隠れていたお婆さん一人だけが助かりました。それ以来、開田では鶏を飼わないようになりました。

こちらは「今宮神社」。この辺りでも激しい攻防がありました。

此処には広久山満福寺というお寺があったそうです。

「今福の梶谷城にいた松浦党の始祖である源久公が晩年日本山に出城を築き、三里地区の平坦な地形をみて一族発展の根拠地として満福寺を建立。境内の一角に久公の嫡子直公が父のために今宮神社を建てました。境内には弘安の役(1281)で鷹島を守るために活躍し重症によりここで自刃した第十四代答公の墓や五輪塔、宝篋印塔が無数にある」とあります。

昭和45年に史跡公園として整備された「宮地嶽史跡公園」

晴れた日には。標高116メートルの高台から玄界灘が一望できます。

こちらには「元寇記念之碑」があり、関連する碑文などもあ建立されています。お店などはないので展望台といった感じです。

中心部にある「松浦町埋蔵文化財センター」。こちらには元寇にまつわる展示物があります。絶対に外せない施設です。史料の数は日本一ではないでしょうか。

入口には大きなビジョンで「蒙古襲来絵詞」が掲示されています。

鷹島のジオラマです。島の南側には多数の元寇船が表示されています。弘安四年七月上旬、平戸湾付近にて集結した元軍(兵の数14万人、軍船4400隻)は、太宰府を陥落させる目的で津崎・青島通過して伊万里湾へ侵入しました。が、七月三十日夜から突如として大暴風雨(神風)に襲われ、元寇船はことごとく海底に沈みました。命からがら海岸へ辿りついた蒙古軍も、数百艘で渡ってきた少弐景資率いる幕府軍に多数討ち取られ、二千人は捕虜として連行されました。

 博多湾に元寇防塁を築いていた事が、結果的に此処で元軍を壊滅させる戦果に繋がりました。神と武士とで成し遂げた偉業と当時の武士も震えた事でしょう。

こちらにはレプリカですが、元朝の国字で「管軍総把印」と刻まれた印も発見されました。元軍の中将クラスの人物のものと思われます。

「てつはう」と呼ばれる土製炸裂弾の残骸。

それを込めて使用した投石機(復元)などの展示もあります。日本側が見た事のない兵器で、苦しめられました。

こちらは元寇船の碇石。矢印のような形の木製の錨に細長い石の重りをつけて使われていました。長い年月で木の部分は海底で朽ちて石だけになり、貝が付着しています。

松浦町埋蔵文化財センターの前には、その遺跡が眠っている伊万里湾が広がっていて当時の様子が想像できます。平成23年10月琉球大学などの研究グループが水深20m〜30mの海底を掘り下げたところ、約730年前の元(モンゴル帝国)の軍船を発見しました。平成24年3月27日鷹島海底遺跡のうち元の軍船を発見地点を含む約384,000㎡が日本の海底遺跡では初となる国史跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」として指定されました。

松浦市立埋蔵文化財センターから少し離れた場所にある「鷹島神崎遺跡」。この海岸沿いに元寇船と武器・武具類や陶磁器などが出土していました。当時木製だったものは、微生物に分解されたり潮流や嵐で流されたようですが、鉄製のものはしっかり残り引き上げられました。

元寇船の碇石を引き揚げてみた。

「碇石」とは元軍船が停泊する時に、海底に下ろす木製の碇(いかり)に使われた重りの石の事です。

令和四年に海底に沈む「碇石」を約740年ぶりに引き揚げるプロジェクトが開始され、全国からの寄付が集まり、ついに引き揚げが実現しました。

引き揚げらた碇石は、付着物をゆっくり取り除きながら元の姿へ戻していきます。

車以外のアクセス 鷹島汽船たかしま

鷹島へのアクセスは、最初の鷹島大橋から渡る方法と、今福港側から鷹島汽船に乗っての対岸の「殿の浦」へ渡る方法の二つです。後者の今福港からは高速船たかしまという船が伊万里湾をクルーズしながら、25分で鷹島殿の浦港まで行けます。

こちらがフェリー「たかしま」。かっこいい船です。車は乗れない客船のようです。

蒙古襲来絵詞(宮内庁所蔵)

黒と赤と黄色と白のカラーリングですが、実はこの色はあの国宝「蒙古襲来絵詞」で使用されている色が基調になっています。ロマンですね。

松浦鉄道

JR有田駅から松浦鉄道へ乗り換え伊万里駅から鷹島口へ向かいます、派手なラッピング列車も見かけました。車内では「鉄道むすめ」ご当地キャラでしょうか、アテンダントの声で観光地案内が流れています。

 伊万里駅から鷹島口へ到着です。ワンマン列車ですので整理券を取って後で払う方式です。

駅名の看板が雰囲気を盛り上げてくれます。駅員はいませんので、ここから港まで民家の間を通って下りて行きます。

下りてすぐのところにあるこちらの建物が待合室兼バス停留所になります。

博多からの直行便おバスもあるようです。知りませんでした便利ですね。

室内の待合室です。地元のお爺ちゃんお婆ちゃん達が休んでいます。

この券売所では出港15分前にチケットの販売開始ですが、時間より少し早く買えたりします。片道600円25分で殿の浦港へ接岸します。

待ち時間に港にある観光MAP看板を眺めました。松浦氏にまつわる名所があるようです。時間に余裕がある方はぜひ。

船の入り口で船員さんへ切符をもぎってもらい、いざ乗船です。

船内はサルーンバスのようにふかふかの椅子がありとても綺麗です。シートベルトはありませんが、客室の外に出る事は危険なのでできません。船員さんに注意されます。

船内からですが、水しぶきをあげて走る気分は爽快です。

と、そこへサプライズ!これは….まさしく元寇船。大船団が襲ってきます。ひえー危ない!!

実は、これスマホのアプリ「AR蒙古襲来」に搭載されているARでスマホをかざすと元寇船が現れる仕掛け。もし、お出かけされる場合は前もってインストールすると見られます。

そうこう驚いている間に、鷹島の殿の浦港へ到着。

こちらが殿の浦港の券売所兼待合所です。出港時間前以外はほとんど無人です。ここから中心部へ行くには、バスがありますが、ほとんど通りません。車が無い場合は40分ほどかけて山道を登るしかありませんが。

ここで安く利用できる移動手段があります。鷹島には「鷹島タクシー」という乗り合いタクシーがありますので、今福港から出港する前に電話予約しておくと迎えに来てもらえます。島内の鷹島埋蔵文化財センターへでしたら200円で送ってくれます。もちろん帰りも電話予約しておくと帰りも殿の浦港まで送り届けてもらえ便利です

歴史ロマンに浸る旅に訪れてみてはいかがでしょうか。

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