【大阪府】大坂の陣ゆかりの地①/天王寺区 茶臼山

 戦国時代最後の戦だった二度にわたる大坂の陣。豊臣秀頼公が再興を進めていた京都の方広寺大仏殿の鐘銘に徳川家康公が難癖をつけたことがきっかけで慶長十九年(1614)十月一日、全国の諸大名に家康公が出陣を命じ「大坂冬の陣」がはじまります。大坂城に真田幸村公をはじめ関ヶ原の戦いの生き残り組約10万の兵が入城。

それを包囲する全国の諸大名の兵、その数20万。指揮する家康公の本陣は、大坂城から南へ一里の距離にある小高い丘「茶臼山」。その一帯は35000人の武士で埋め尽くされたと言います。現在は公園として整備され観光スポットになっています。商業地や住宅地になっていなくてよかったです。

天王寺駅を降りてそのまま茶臼山へ向かいます。

大阪市立大美術館の前を通り

橋を渡ると見えてきました。ワクワクですね。

茶臼山古戦場への入り口です。思ったより綺麗に整備されてます。緑が多く、たくさんの樹木で視界が遮られ落ち着いた雰囲気です。そのせいなのかカップルがかなり多かったです。

説明の看板がありました。

「慶長二十年五月七日、真田の赤備えが陣を構える茶臼山の真田幸村隊3500は、この日の正午すぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢 15000と激突し、真田の赤備えと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大阪夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(天王寺口の戦い)数では劣る真田隊ではあったが、高い戦意と捨て身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くとこまで攻めるも、数に優れる越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山で抵抗を続けた真田隊も奮戦虚しく壊滅し、真田幸村も疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。」

こちらはわかりやすいですね。二度目の戦い夏の陣での布陣が書いてあります。徳川方の総兵力15万5000、対する豊臣方は5万5000。茶臼山は冬の陣では、家康公の本陣でしたが、二度目の冬の陣では真田幸村公の陣地でした。真ん中のグレーの縦線は大阪環状線の天王寺駅です。

さらに進み、上り坂を登ると標高26M笑の茶臼山を山頂を示す碑がありました。真田の家紋である六文銭付き。

反対側には徳川家の家紋の三つ葉葵が。

碑石の周りにはゆかりの戦国武将たちの説明板が並んでいました。 大坂夏の陣での「道明寺の合戦」では奈良と大阪を結ぶ道明寺付近で畿内入りする徳川軍を個々撃破する作戦をとった豊臣軍でしたが、事前に内部から情報が流され徳川方にルート変更されたうえ、濃霧で豊臣方の終結が遅れ後藤又兵衛、薄田兼相ら名将が伊達政宗の騎兵鉄砲隊の前に次々と倒されていきました。

幸村が到着した時には戦線が壊滅しており撤退するしかありませんでした。幸村は撤退する大坂方の殿軍(最後尾)を務め、伊達軍に対して地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めました。殿(しんがり)とは撤退する味方の盾となり一人でも多くの味方を退去させるいわば決死の役割りです。幸村は見事味方の撤退を成し遂げた際、この名言をひと吠えして悠々と帰還したそうです。「関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候」

こちらには珍しく御城印ならぬ「茶臼山登頂証明書」なるものがいただけるようななので、早速向かいました。

こちらの一心寺存牟堂で「大坂の陣史跡案内所」で発行されています。

1枚百円でした。登山と歴史好きな方はぜひいかがでしょうか?

こちらでは詳しく映像やポスターで説明されており、各種スタンプや史料などもあります。

一心寺と安居神社はこの施設から少し東へ離れた場所(④茶臼山のすぐ上が現在地)にあります。

一心寺

こちらが一心寺です。こちらには大坂の陣ゆかりの見ておきたい物三つ。

境内に入ってすぐ横にある徳川四天王の一人の猛将本多忠勝公のご次男、本多忠朝公のお墓

大坂冬の陣にて与えられた布陣地に不満を漏らしてしまい家康公から怒りを買われます。翌年、夏の陣の天王寺口の戦いにて汚名挽回をと大名ながら一騎駆けで突撃し大奮戦しますが討死してしまいます。

「死に臨んで深く酒癖を悔い、将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられらる。以来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところになり酒弊の徐滅に信を得ている。墓碑周辺の杓文字は参拝者による酒封じ祈願。墓碑は元和二年(1616)に建立されたものである。」

奥のお墓が並んでいる場所の一角にある「伝 真田の抜け穴 井戸跡」。現在はコンクリートで蓋がされています。

霊園とは反対側で通り側にある北門の石段付近にある「霜ふりの松。現在は朽ちた松の切り株ですが、夏の陣の頃は一心寺のシンボル的な大きな松でした。真田幸村公がここで徳川家康公にあと一歩まで迫りし時、この松から霧が吹き出して家康公の姿を隠し救ったと伝えられています。

安居神社

一心寺の北門から通りを挟んで向かい側にご鎮座されている「安居神社」。誰もがご存知、真田幸村公終焉の地。御祭神は、菅原道真公、少彦名神。学問と薬の神様です。

鳥居をくぐった先の境内に「真田幸村戦死跡之碑」があります。

「元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大坂城を攻めた。ここに於て大坂の兵は城の既に恃(たの)むべからずを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、薄田兼相など大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次などが敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦下が、

ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢49歳であった。当時の松は枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日これを記念して植樹された。例年五月に幸村祭りが盛大に行われる。触れられるように真田幸村公の像も低い位置にあります。

「男の中の男」として男性たちの参拝が絶えません。お供えをする方も多くいらっしゃいます。

隣に社務所もありますので、お守りや御朱印もいただけます。

夏の陣の後に首実検をされた家康公が「幸村の武勇にあやかれよ」というと居並ぶ武将たちが遺髪を奪い合ったそうです。さらに「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり江戸城内にて幸村を褒め讃えることを許す」と言われるほど。

幸村公の兄、信之公は「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹たつことはなかった」「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具もち。それほどの差がある」と語りました。

武士が憧れる本当のサムライ真田幸村(信繁)公。茶臼山を散策をして戦国時代への思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

大坂の陣ゆかりの地その②

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