【東京都】伊賀忍者:服部半蔵正成の墓所/新宿区 西念寺

忍者といえば、アニメのキャラにもなるほど知名度抜群の「服部半蔵」。東京都四ツ谷駅近く、細い路地の先にある「服部半蔵開基 西念寺(さいねんじ)」。こちらにお墓があります。忍者として有名な服部半蔵正成公が、松平信康公(徳川家康公嫡男)の供養の為に開創されました。

槍の名手 鬼半蔵

服部半蔵正成公は、天文十二年(1542)三河国(愛知県)に生まれ、父の服部半蔵保長公のあとを継ぎ徳川家康公に仕え、慶長元年(1596)五十五歳で没しました。元々の家柄は桓武平氏だった服部氏。伊賀の地侍(忍者)三家(百地三太夫、藤林長門、服部半蔵)のひとつでしたが、父の代に三河に来て松平家(徳川家)に仕えました。

十六歳のとき初陣の三方ヶ原の戦いで戦功を上げた半蔵公は、家康公より槍一筋を賜り「鬼半蔵」と呼ばれるようになりました。槍の名手だったんですね。こちらの本堂にその槍が現在も保存されているそうです。

伊賀越えで大活躍

時は戦国時代。天正九年(1581)秋、服部半蔵正成公の故郷、伊賀(三重県)は織田信長公によって攻め滅ぼされてしまいます。その際、三河(愛知県)へ落ちのびてきた伊賀の侍たちを家康公は保護してくれた恩義を半蔵公は強く感じていました。

翌年の天正十年、本能寺の変が起こります。そのとき半蔵公は、堺から上洛の途にあった徳川家康公・本多忠勝公と共に家臣30名の中にいました。仇打ちもあるが無勢、兎に角まずは岡崎へ脱出するべきと計画を進めますが、道中に落ち武者狩りの農民や地侍そして明智軍も潜んでいるかもしれません。家康公はピンチに追い込まれます。写真;本能寺跡(京都)

「前年の御恩を今お返しする時ぞ!」とばかりに服部半蔵正成公、すぐさま仲間の伊賀者200人と甲賀衆を呼び警護させ、最短ルートで(ほんとに真っ直ぐ)難所を抜け三河(愛知)への脱出作戦を成功させました。有名な「伊賀越え」ですね。無事帰り着くと家康公は、護衛してくれた伊賀者200人に禄を与え家臣にして、「伊賀組同心」として服部半蔵正成公に率いさせたのでした。映画のストーリーみたいです。

お寺の由緒とお墓

主君の家康公にはご長男信康公がおり、織田信長公の娘を娶りましたが、不仲や甲斐の武田氏との内通を疑われ信長公より切腹を要求されてしまいます。父の家康公は背けず断腸の思いで同意し、切腹の介錯を半蔵公に命じますが、半蔵公は任を果たす事ができず、以後信康公の冥福を祈るため剃髪し「西念」と号し仏門に入しました。

当初は麹町清水谷に開創(お寺を開く)しましたが、寛永十一年(1634)江戸城外掘の開削に伴い現在地へ移転しました。法名「専称院殿安譽西念大禅定門」から山号、寺号を取り「専称山安養院西念寺」に。こちらがお墓です。宝篋印塔と呼ばれるお墓で形で時代や位がわかります。

西念寺さんの掲示板には御朱印とお守りの事が貼られていました。さっそくいただきに。

御朱印帳もありました。これは買っちゃいますね絶対。

四ツ谷駅

最寄りの駅は「四ツ谷駅」。近くには迎賓館などもあります。

四ツ谷駅構内に江戸城外堀史跡展示広場があり、江戸城と鉄道に関する歴史を学べます。