武人伝④山陰の麒麟児/山中鹿助幸盛

 出雲大社や石見神楽で有名な島根県。その東部にある安来市。ユーモラスなドジョウ掬い踊りでも有名ですが、かつてその安来には難攻不落の山城と屈強な武芸の天才「もののふ」がいました。勝海舟は大石内蔵助と並べ賞賛し、頼山陽は「戦国乱世の麒麟児である」と称えました。

山陰の麒麟児 山中鹿助幸盛(天文十四年〜天正六年)

 そのお方の名は、山中鹿助幸盛公。鹿介などの記載が見受けられますが、「鹿助」が正式だとの事で以後使用します。主君は尼子氏。そのナンバー2として鹿助公は動乱の戦国乱世を生きました。この超美男子な武将様の物語です。

生い立ち

生まれは天文十八年(1545)八月十五日、出雲國富田荘(現島根県安来市)にて、父山中三河守満幸(一歳の時死去)と母立原佐渡守綱重の娘〝なみ〟との間に生まれました。山中家は、宇多源氏の流れを汲む尼子経久の父の清定の弟である幸久を家祖とする尼子家の一族。幸久から数えて七代目になります。

主君 尼子晴久

彼が生まれた時の主君は「尼子晴久」。父は尼子経久公で、難攻不落の月山富田城を居城とし、出雲を中心に勢力を拡大させ全盛期を築いた武将。その経久公の跡を継いだ晴久公は、中国地方統一に向けて安芸の毛利氏・周防の大内氏を降すべく戦いを繰り広げ、大内勢を月山富田城で退けた時は足利義晴より一字を賜り倫久から晴久となりました。写真:尼子晴久肖像画

尼子三傑 立原源太兵衛久綱

〝なみ〟の兄である立原備後守幸隆は、敵国安芸国へ連行された尼子義久に従い、もう一人の兄久綱は上月城で鹿助と共に戦い、落城後は阿波国に渡り出家しました。

山中家と立原家にとって主家尼子氏に対する思いは篤く、敵国の大内氏や毛利氏に寝返る者がいた中で決して裏切ることなかった立原久綱・山中鹿助幸盛・熊谷新右衛門尼子三傑と呼ばれました。

幼少期の幸盛公

鹿助公には幸高という兄がいましたが、病弱だったため自分から家督を鹿助公へ譲りたいと申し出たため鹿助公が相続する事に。母親〝なみ〟は生活は苦しくとも立派な武士になれるよう愛情あつく育て、鹿助公自身も当主として自覚をもって幼き頃より鍛錬に明け暮れました。

難攻不落の月山富田城

安来市広瀬町を流れる一級河川の飯梨川。昔は富田川と呼ばれていました。その川沿いの丘陵地帯にある「月山富田城(がっさんとだじょう)」。ここが主君尼子氏の本拠地。難攻不落の城と呼ばれ、周防の大内氏と安芸の毛利氏との戦いの舞台となりました。

月山富田城についてはこちらへ。

願わくば 我に七難八苦を与え給え

山陰の麒麟児 山中鹿助幸盛公像 

月山富田城の駐車場から100メートル程登った所に「山中鹿助公像」があります。鹿の角に三日月の前立て兜に甲冑姿、槍を抱き両手で拝む姿。鹿助公は幼ない頃より、三笠山に掛かる三日月に向かい武功を立てられるよう祈願していたという。

「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と後の教科書にも載り一躍有名になりました。この言葉自体は後に付け加えたようですが、実際にそういう生き様でした。

武勇伝

七歳 佐久間鎌次郎と対決

病弱な兄を侮辱した佐久間鎌次郎と口論となり斬り伏せました。

十五歳 敵の猛将菊池音と一騎討ち

尼子義久公が尾高城主 山名守重を攻めた際には、敵の猛将菊池音八との一騎討ちをして勝利し名をあげました。優れていたのは剣の腕前だけではなく、ずば抜けた行動力と頭脳の持ち主だったという。

十八歳 白鹿城の戦いにて

永禄六年、安芸の毛利元就は次々と城を落としながら尼子領に侵入、月山富田城を包囲し攻撃しますが、天然の要害と鹿助たちの奮闘で城は落城させる事が出来ず、力攻めは無理と判断した毛利勢は兵糧攻めに切り替え、城は包囲したまま兵を防衛線の城である白鹿城攻略へと向かわせました。

白鹿城の戦い

永禄六年(1563)八月十三日、荒合山に陣を敷いた毛利主力約15000の総攻撃が白鹿城で始まりました。対する尼子籠城側は約2000と少数ですが、城主松田誠保と月山富田城から救援の牛尾久清らで毛利勢の猛攻を必死に耐え凌ぎ続き戦況は膠着状態。しかし、長引く戦況に次第に備蓄が底をつきはじめ、誠保は月山富田城へ救援を要請。

それを受け月山富田城内では軍議が開かれました。鹿助公は尼子義久公の弟倫久公と夜襲を献案しますが、

家老たち

戦の仕方も知らぬ若造が、何をたわけた事を!

と一蹴。大将義久公も同意し、救援は家老を中心とした編成で白鹿城へ向かいました。案の定、待ち構えていた毛利勢にあっさり撃退され一万の兵は壊滅敗走する事に。

山中鹿助幸盛

腰抜けの家老たちよ!尼子を救うのは、我ら近習衆のごとき若者のみ!

鹿助公は殿を務め、追ってくる敵を防ぎ退却しました。

品川大膳との一騎討ち

果てしなく続く月山富田城の決戦の中で、後世に語り継がれる一騎討ちがありました。場所は両軍を隔てる富田川(飯梨川)の中洲で、現在でもその場所に石碑が建っています。対決した両者とは尼子軍の山中鹿助幸盛、毛利軍の品川大膳(将員)の二人。

石見国の久城普月城主益田藤兼の家臣で、身の丈五尺九寸(約179cm)の豪傑。尼子の勇者鹿助を討って功をあげるぞと意気揚々の品川大膳は、「棫木狼介勝盛」(たらぎおおかみのすけかつもり)と名を変え勝負を挑みました。(棫の新芽を鹿が食べるとその角が落ちると言われた事から棫木鹿に勝つという意味で狼介、絶対に勝つという意味で勝盛

勝負の刻になり、富田川の中州へ両者が泳いで向かう両雄の姿を敵味方の兵が見守リます。その時、狼介が弓と矢を持っている事に尼子十勇士の一人で弓の達人「秋上庵介(あきあげいおりのすけ)」が気付きました。

秋上庵介

おのれ!飛び道具とは卑怯なり!

秋上が放った矢が狼介の持っていた弓の弦を見事に射切り、仕方なく弓を捨てた狼介は中洲に上がると刀を抜いて待ち受け、ついに両雄の対決が始まりました。

お互い刀を振り斬り合うも、鹿助公は膝を斬られてしまいます。やがてお互い刀を捨て組合う展開に。こうなると有利なのが巨漢で怪力の狼介。鹿助公をむんずと掴み持ち上げ、首をはねようと組み伏せます。鹿助危機一髪!でしたが一瞬早く鹿助公の腰の短刀が狼介の腹を貫き決着。

山中鹿助幸盛

出雲の鹿が石見の狼を討ち取った!

と勝ち名乗りをあげると一斉に歓声が湧き、籠城で疲れ切った尼子勢の意気が高まりました。

しかし、その勢いも一時的で毛利の兵糧攻めに逃げ出す者が相次ぎ、ついに尼子の命運も尽きようとしていました。徹底抗戦を訴える鹿助公と立原久綱の主張も、もはや万策も尽きたと大将義久、倫久、秀久の三兄弟は開城降伏を決意。十一月二十一日に誓書を交わし、七日後に城を出て毛利氏の軍門に降りました。

城内にいた者はわずか104名、ここに十一州の太守だった尼子氏の繁栄は終わりを告げました。その後、尼子勢は杵築にて主君と別れ離散し、尼子三兄弟は毛利氏の本拠芸州高田郡の吉田から一里離れた長田の円明寺に入り監禁同様の身となりました。その後三人共に毛利氏の家臣となり長門国で生涯を閉じました。

鹿助幸盛、京へ上る!

主君と居城を毛利勢に奪われましたが、鹿助は諦めていませんでした。一騎討ちの傷を癒した後、京で待っていた立原久綱と合流し、東福寺で僧になっていた尼子新宮党の遺児を総大将〝尼子孫四郎勝久〟とし尼子再興を実現するため動き出しました。時に勝久十七、鹿助二十四。写真:東福寺(京都)

隠岐へ渡る

毛利氏が九州の大友氏と戦いの為に出雲を手薄にしたのを好機と見て、さっそく畿内の尼子残党六十三人と共に但馬の香住へ向かい水軍奈佐日本之助の助力で隠岐へ渡りました。そこで隠岐為清を仲間にし千酌へ上陸、尼子の残党も呼応し出雲奪還に向けて挙兵しました。写真:隠岐島

忠山城を落とした後、白鹿山の東北に位置する毛利の新山城を奪取し本拠とし、鹿助公と精鋭たちで月山富田城を取り返すべく出陣しました。月山富田城を守るのは毛利家臣天野隆重以下わずか二百。楽に落とせると思われましたが、難攻不落の山城ゆえに大苦戦。写真:月山富田城

この事態を知った毛利元就公は、すぐさま九州の大友との戦を中止し、孫の輝元に大軍14000を与え救援に向かわせました。察知した尼子勢7000は挟み撃ちを防せぐべく南下し、布部山という山で毛利隊を待ち伏せ。元亀元年(1570)二月十四日、「布部山の戦い」で激突。最初は優勢だった尼子再興軍でしたが、次第に劣勢となり撤退しました。

決死の脱出

鳥取県大山町にある末石城で鹿助公は吉川元春に降伏。米子市にある尾高城へ押し込められましたが、赤痢にかかったフリをして一晩数十回以上厠(便所)に通い、警備の者が油断した隙に穴から外へと脱出に成功。一方、総大将の尼子勝久も元亀二年(1571)八月、吉川元春軍の猛攻にさらされていた真(新)山城を脱出し隠岐の勝山城へ逃れたのち京へと向かいました。

織田信長に仕官

天正元年(1573)鹿助公は、立原久綱や亀井茲矩らと共に織田信長に接近しました。この頃の信長公の勢いは凄まじく、京都二条御所で将軍足利義昭と対決し室町幕府を滅亡させると、越前で朝倉氏、近江では浅井氏も討ち天下統一に邁進していました。

毛利勢を倒すには対立する信長勢に加わって戦い、尼子再興を実現させたいと思われたのでしょう。その甲斐があり明智光秀の勧めで信長公に謁見後、光秀軍に配属されたのでした。

一騎討ちと明智光秀

天正五年(1577)織田家に反旗を翻した松永久秀を討つべく信貴山城へ織田軍が十万の兵で城を包囲した戦いでの事。戦の功を挙げたい鹿助公は、ここで松永家家臣で河井将監という武将と一騎討ちをして組み打ちで倒し手柄を挙げました。しかし、指揮をとる明智光秀公に

明智光秀公

一軍の将たる者が、このような振る舞いをするのはいかがなものか!

と勝手な行動は慎むよう叱責されました。それだけ鹿助公を高く評価していたのでしょう。

鹿助最後の戦い

上月城は、兵庫県佐用郡佐用町にある標高130mの小山にある山城で城主は赤松政範。征西軍総大将に任ぜられた羽柴秀吉は大軍でこの城を包囲し攻め落とし、尼子勝久公と鹿助公に上月城の守備を任せました。ここが二人の最後の戦いの地となりました。

天正六年(1576)四月、信長軍の侵攻を許さない毛利勢が約三万にて上月城を包囲。対する籠城側は尼子勝久公、鹿助公、立原久綱、旧臣と女子供たちの約三千。上月城は低い山のため四方から攻められやすい上、兵力も少ないため籠城側は苦戦を強いられます。次第に兵糧も尽きかけ士気は下がりますが、救援を要請した秀吉軍の到着まで耐え抜きました。写真:上月城(兵庫)

友との別れ

その頼りの秀吉軍は鹿助公の友である亀井茲矩と共に上月城へ向かいます。しかし毛利軍の抵抗が思う以上に激しく助け出すことができません。なんとか助けたい亀井茲矩は、密かに上月城内に潜入し勝久公、鹿助公に脱出を勧めました。

亀井茲矩

城兵はうって出よ!我らも同じくうって出る!さすれば囲みを破れるであろう!

しかし、意外にも勝久公と鹿助公は首を縦に振らず断りました。

山中鹿助幸盛

秀吉殿のご厚意はかたじけないが、これ以上犠牲を出せぬのだ!

城内に残る七百名を見捨てるわけにはいかなかったのでしょう。諦めず籠城抗戦を選択をしますが、その後反旗を翻した別所長治の三木城へ向かうよう信長公より命が下され、頼みの秀吉軍から見捨てられる形となった上月城は孤立無援となり、尼子の命運はここに潰えました。

もはやこれまでと尼子勝久公は城内の者の無事を条件に降伏し切腹。二十五。のちに「敵国にいて四十四年も長生きした本家の義久に比べ、分家の勝久公の方がはるかに男らしい戦国武将だった」と賛えられました。

写真:上月城跡(兵庫)

鹿助死す

捕えられ毛利氏の安芸へ護送された鹿助公でしたが、天正六年(1578)七月十七日、備後国甲部川阿井の渡し(岡山県高梁(たかはし)市)に差し掛かった際、毛利氏家臣に不意に斬りつけられて「山陰の麒麟児」は落命しました。三十三。

毛利側の吉川元春が渡された彼の兜は現在、山口県岩国市にある錦帯橋そばの「吉川史料館」に所蔵されています。毎年春の時期に展示されているようです。(特に案内されていませんので確認が必要です)

墓所

鳥取県鳥取市鹿野町にある「浄土宗 幸盛寺」。こちらに山中鹿介幸盛公のお墓があります。亀井茲矩公が城主だった鹿野城近くの細い道の途中にありますが、分かりにくければ「鹿野往来交流館 童里夢」という観光案内所に駐車場がありますので、そちらを目指せば分かります。

「天正九年(1561)鹿野城主となり気多高草(けたたかくさ)一円を領した亀井武蔵野守茲矩公はもと湯新十郎といったが、幸盛公の養女を娶り、亀井氏をついだもので明照山持西寺をこの位置に移し、寺号も鹿野山幸盛寺と改め、舅にあたる幸盛公の冥福を祈るとともに遺骨を高梁から移し、境内に墳墓を築いたものである。」

手前には「尼子十勇士の一人 日野五郎之房の五輪塔」が建っています。十勇士の中でハッキリと実在した秋上庵介ではないかと言われています。

立ち寄りスポット

安来清水寺

中国三十三観音霊場第二十八番札所・出雲国神仏霊場代十一番札所のこの厄払いの寺と知られるこのお寺は、山中鹿助幸盛公と尼子十勇士ゆかりの場所でもあります。

大門をくぐるって石段を上がった先に大きな根本堂があります。根本堂の中に入って左側の受付の上の方に「尼子十勇士を描いた奉納画」(撮影不可)が飾られています。

もちろん「御朱印」やお札・お守りもいただけます。厄災を祓う鬼の印が印象的です。その奥に三重の塔が建っていて、さらに奥に進むと裏山の遊歩道があります。

その遊歩道の先に鹿助公が槍先を研いだと言われる「山中鹿介の槍砥石」があります。

遊歩道は凸凹していて落ち葉も積もり歩きにくいので足元に注意です。奥の方にあるので見落としがちですが、案内板の先にあります。

やっとたどり着きました。こちらです。ここで槍を研ぎながら鹿助公と十勇士たちが尼子再興の夢を語り合ったのでしょうか。

ついでに、展望台にも行ってきました。木々に囲まれているので視界はあまりよくありませんが、奥には中海と日本海、米子の風景が広がっています。一望できます。

安来市歴史資料館

難攻不落の月山富田城の駐車場にある施設で、史料などが展示されています。営業時間9:30〜17:00 定休日:火曜日 入場料大人210円。

尼子の歴史が分かる冊子、御城印や武将印を取り扱っています。こちらの他にJR安来駅でも、関連のお菓子などが販売されています。

史料館の隣に併設されている「絣センター」にはお土産屋さんもあり、民芸品や「尼子うどん」も販売されています。営業時間11:00〜16:00 店休日:水曜

絣センターには、鹿に因んだこんなレトルトカレーも販売されています。島根県の高校生が考えたカレーで、山中鹿助幸盛公の「願わくば七難八苦を与えたまえ」に因んで七つのパウダーと8つのホールスパイスを効かせた味を効かせた味だそうです。

彼の一途な思いと侍の魂は、数百年経った今でも人々の心を惹きつけてやみません。

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