【熊本県】相良氏700年の居城 人吉城跡/人吉市

 人吉城は出土した三日月文様の石から別名「繊月城」とも呼ばれています。築城主は相良長頼公。元々は平氏の館があったところへ、鎌倉時代初期に遠江国相良庄(静岡県牧之原市)から源頼朝公から命じられ父上の頼景公は多良木荘(上相良氏)へ、子の長頼公が人吉荘(下相良氏)に下向し地頭として治める事になりました。南北朝時代には南朝側の上相良氏と北朝側の下相良氏との間で合戦になりましたが、下相良氏の相良長続公が勝ち人吉・球磨を統一しました。その合戦の頃から次第に城郭化されはじめました。

石垣工事は天正17年(1589)第20代長毎(ながつね)公からはじまり、第21代頼寛(よりひろ)公の頃に球磨川に面する石垣が完成。

 その後も勢力を拡大、一時は八代の古麓城を名和氏から奪い居城にして八代まで拡大する勢いでしたが、南から北上して来た島津の大軍に次々とお城を落とされ、ついには居城の古麓城まで奪われてしまい降伏し配下となりました。

義の武将 18代当主相良義陽公

 天正九年、お城の改修に取りかかっていた第18代当主相良義陽公のもとへ島津氏から命が下ります。北上する上で障害となる阿蘇氏を討てと。阿蘇氏の背後には大友氏、相良氏の後ろには島津氏。いわば代理の形で対決する事に。実は阿蘇氏の甲斐親直公と相良義陽公は、決して互いの領地へ侵攻しないと固く盟約を結んでいました。友との約束を守るべきか、君主に背くべきか悩む中、合戦が始まります。

肥後國響ケ原(下益城郡豊野村)。この場所に陣を置いた義陽公。敢えて不利な場所を選び甲斐勢に敗れたと伝わります。退却を進言する家臣の言葉も聞かず、着座したまま打ち取られた義陽公の首級を見て甲斐親直公は涙したそうです。現在は相良堂という祠に祀られています。取り掛かった人吉城の改修工事を完成させることは、亡き義陽公への弔いの意味もあったのでしょう。※一説には相良勢が前哨戦に勝ち、雨の日に酒盛りをして油断していたところを甲斐親直の奇襲に遭い破れたとの話もありますが、それは別の合戦での隈部勢の事だと思われます。

秀吉公の九州平定

 その後、起きた太閤秀吉公の九州征伐で第20代長毎公は、いち早く秀吉公に臣従し、人吉の本領二万二千石を安堵されました。統治を任された長毎公は、さらに城域を拡張・改修し石垣を備えた現在の近世城の姿になっていきました。その後も存続し発展を続け明治時代になるまで700年も同一の領主が居城にしたという非常に珍しい歴史をもつ人吉城は相良氏一族の魂の結晶なのかもしれません。

人吉城歴史館は休館中で再開はまだ当分無理のようです。百名城スタンプは建物右側奥です。

熊本県南部で人気の観光スポットでしたが令和二年七月の水害により城内・周辺の一部が立ち入り禁止、歴史館も休館で入れませんでした。御城印はありませんが、日本百名城のスタンプは設置されていました。

この日は聖火リレーが開催されていて見学していきました。アクセスは、JR九州の八代〜人吉〜吉松間が不通のため九州高速道人吉ICを利用しました。

令和3年4月27日現在の観光ルート(人吉市さんのHPより)

現在の人吉城趾(令和五年四月現在)

 あれから二年後の令和五年四月、再度人吉城跡を訪れました。以前は水害の被害で石垣や土砂が崩れる危険性があるため、いたる所が立ち入り禁止でした。現在は改修作業のために立ち入り禁止といった感じです。

 でもだんだん元の形に戻って来ました。人吉城歴史観のある辺りからの眺めです。この敷地内にも入れるようになりました。背景に桜が咲く小高い丘の辺り一帯に人吉城の二の丸、本丸があります。くり抜きパネルにある「相良の殿様」は戦国武将の相良長毎公

残念ながら人吉城歴史館はまだ休館中で再開されていません。日本100名城スタンプは以前お伝えした場所で押せます。場内を通る道を挟んだ場所に相良神社があり、その裏手から登城できます。

こちらは三の丸。非常に綺麗に整備されています。ご覧の通り天気がいい日には遠足ができそうな雰囲気です。地元の方達がきれいに整えられています。

 三の丸から二の丸跡へ上がりました。戦国時代までの中世人吉城は、上原城を本城とする山城でした。この場所は「内城」と呼ばれ、婦女子の生活するスペースだったのですが、天正十七年(1589)、第20代当主相良長毎公により近世城(石垣)への築城が始まり現在の本丸、二の丸に変貌しました。二の丸は本城と呼ばれ、城主や侍たちの屋敷がありました。

 本来なら城主が本丸に居住していそうですが、人吉城は違いました。本丸には天守閣は造らず護摩堂が建てられ、神聖な場所として「繊月石」が祀られていたそうです。「繊月石」とは?元々、人吉は平氏の所領でした。元久二年(1205)源頼朝公に仕えていた相良長頼公(下相良氏の祖)が人吉荘の地頭に任ぜられると、立ち退かなかった平氏を討ち人吉城の改修工事に取り掛かりました。その際に「三日月文様」の奇岩が見つかり、それをこちらで祀っている事もあって、人吉城は別名「繊月城」と呼ばれるようになりました。現在その石は、現在は城内にある相良神社へ奉納されています。

参勤交代の先駆け相良氏の関ヶ原

 慶長五年(1600)各國の運命がかかった関ヶ原の合戦。相良氏は豊臣恩顧、また島津氏も西軍なので「西軍」につきました。が、西軍がもし負けた場合の時も考え、相良氏の執政犬童清兵衛は東軍の井伊直政公とも秘密裏に交流していました。

 合戦時、西軍の本拠である大垣城の警護を任されていましたが、西軍があっけなく敗走すると、すぐさま寝返り大垣城を開城させ東軍勝利に貢献し、お家断絶を免れました。しかし、西軍に加担してた罪は重い。その罪を償う意味で、長毎公は母を人質として江戸に留めておくよう徳川家康公に願い出ました。これが先例となり諸大名が妻子を江戸屋敷に住まわせる事になり、その後の寛永十二年(1635)から始まる参勤交代の制度へと発展しました。

近世人吉城の誕生と終わり

 江戸時代の寛永十六年(1639)、相良義陽公が理想としたお城の改築工事は第21代頼寛公の頃にようやく完成。本丸までの高さ52m、北は球磨川、西は胸川が天然の堀をなす周囲2200mの壮大な要害の人吉城が人吉藩の居城となりました。しかし享和二年(1802)と文久二年(1862)、二度にわたる大火によりお城は焼失した後、明治維新を迎え廃城となりました。西南の役では敗走する西郷軍が人吉城に布陣しましたが、すぐに政府軍に占領されました。

周辺のスポット

相良神社

城内にある相良護国神社。桜が咲いていて綺麗です。ちなみに駆逐艦「秋月」の艦内神社にもなりました。こちらには犬童騒動ゆかりの石もあります。授与所は鳥居から入ってすぐ左の建物になります。境内の右手からお城へ通じる石段があり登城できます。

御社殿の左横にある相良神社には代々の相良家当主がお祀りされていて、歴代18人の肖像画も残されています。(見られません。)

老神神社

大手門から道を挟んで御鎮座されている相良家の産宮となる老神神社。歴史は古く、大同二年(807)。現在の御社殿は江戸時代初期の寛永五年(1628)相良長毎(ながつね)の命により、造営されました。それまでは球磨川に面した山深きところで小さな祠があるだけでしたが、相良一族が古来より御産神と信仰された神社です。普段は無人ですが、お守りや書置きの御朱印もあります。

人吉温泉元湯

城内にある銭湯です。駐車場もあり汗を流すにはちょうど良い場所です。注意する点は正午12時から14時までは、清掃のため入れません。

●球磨川下り船着場

人吉城を前を流れる日本三大急流の一つ球磨川が流れており、年貢米などの運搬にも使われました。現在では人吉名物「球磨川下り」の船着場があります。

船頭さんと一緒に30分くらいの急流下りが楽しめます。乗船料金は大人2000円、小学生1000円、3歳以上の幼児500円、出航時間 平日10:00 11:00 13:00 14:00 15:00 。土日祝日は9:00 10:00 11:00 13:00 14:00 15:00 (15分前まで受付)となってます。以前利用した事がありますが、川下り中の舟ごと記念撮影してくれるサービスがありました、

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