【東京都】隅田川と大江戸四橋物語②/永代橋・吾妻橋

「隅田川の呼び名 本来は荒川ですが荒川放水路が荒川となって以来、荒川下流の支流の部分だけの名称になっています。住田川・隅田川・角田川とも書き、澄江・墨水とも言います。さらに別称には須田川・あすだ川・染田川・大川・両国川・みやこ川・浅草川の名もあります。」

東京の隅田川に架かった江戸時代の4つの橋。「両国橋」「新大橋」に次いで架けられた橋

江戸時代③番目の橋 永代橋

現在は、中央区新川と江東区佐賀町を結ぶ水色の鉄製の橋が架かっています。元々この永代橋は現在架かっている場所から100mほど離れた場所にありました。ちなみに「佐賀町」の由来は、ここ一帯は干潟の埋立地で、その風景が肥前の佐賀港に似ていたため命名されました。

新大橋の架橋から五年後の元祿十一年、将軍綱吉公の50歳を記念して架けられた「永代橋」は、長さが百十四間(約189m)、幅三間四尺五寸(約6.5m)、木造の太鼓橋で満潮時でも水面より一丈(約3m)余もあり、船の通行も考えらて作られました。海の玄関口なので警戒も厳重で、岸に船番所を設けて足軽などと待機させていました。

「永代橋は、元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近が、永代島と呼ばれていたため、永代橋と名付けられました。当時の橋は現在より約100m上流に位置し、橋の両側には広小路(延焼を防ぐため)を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て武士・医師・出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。」

ただ、武士・医者・出家・神官の通行料を無料にしたために、なかなか修繕費が集まりませんでした。そのため橋の修繕工事の計画が進まず、その後の事故へとつながってしまいました。

文化四年(1807)八月十九日、雨のため開催が伸びていた深川八幡祭りの日。大勢の人でごったがえしていた午前十時ごろ、永代橋の下を一橋卿の御船が通ることになり、橋番が急いで縄を張り橋を一時通行止めにしました。しかし、それを知らない人たちが、お構い無しに両岸に押し寄せ黒山のように膨らんでいきました。

無事に御船が通過し、橋番が縄を解き開通させた瞬間、黒山の群衆が雪崩れのごとく一気に永代橋上へ殺到!さらに深川側に神輿が通ったため、それを見物しようと更に人の波が押し寄せました。次の瞬間、橋の真ん中付近が重さに耐えきれず、四間(約7m)ほどがバキッと欠落。橋上にいた人々は川へ真っ逆さまに転落、その事に気付かない人たちが更に押し掛け次から次へと川へ。

人命を救った一人のお侍

そのパニック状態の最中、橋上で仁王立ちして大声で叫ぶ一人のお侍様の姿がありました。

刀を抜きながら絶叫する姿に、群衆たちは立ち止まり注目しました。

江戸っ子

ヒィ〜!みんな下がれ!下がれ!斬られるぞ!

やっと事故に気付き我に返った群衆は、冷静さを取り戻し引き返しました。結果440人が亡くなりましたが、このお侍様の機転がなかったら、さらに多くの被害が出ていたのは間違ありません。この人命を救ったお侍様

後日、南町奉行所同心「渡辺小左衛門」と分かり江戸中で大評判となりました。まるで遠山の金さんのようです。写真:南町奉行所跡/有楽町駅前

周辺の立ち寄りスポット

●富岡八幡宮

令和九年に御鎮座四百年を迎える「富岡八幡宮」。深川の八幡さんとして、江戸っ子たちの親しまれている神社です。令和九年に御鎮座四百年を迎えます。四百年前は、徳川家光公の時代です。

●深川成田山不動堂

富岡八幡宮のお隣にある「深川不動尊(成田山の分院)」。わらじのお守りが沢山あり、健脚を競う特にスポーツ関係の人も多く来られます。

サッカー日本代表のお守りもありましたよ。ファンには欠かせないのではないでしょうか。

こちらは参道のお煎餅屋さんで販売されていた「日本一堅いお煎餅」。分厚いお醤油煎餅です。

江戸時代④番目の橋 吾妻橋

江戸時代、隅田川に架けられた四つの橋の中で一番最後の橋「吾妻橋(あづまはし)」。当時は長さ八十四間(約153m)、幅三間半(約6.3m)のもちろん木製橋でした。浅草駅と東京スカイツリーの間の橋と言えばお分かりでしょう。

「吾妻(あづま)の名は、古来、東国、関東地方を総称するアズマの語に由来しています。また立花の吾妻神社にもゆかりをもっています。あとは〝竹町の渡し〟のあったところで、安永三年(1774)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていましたが、後には吾妻橋と通称されました。

この橋は、浅草花川戸の家主伊右衛門と下谷竜泉寺町の家主源八の両人が発起人となり、町の繁栄のために幕府に願い出たことに始まります。当時の江戸は火災も多かったので、木材の需要も多く、たくさんの材木が運搬・流通されていました。※絵図:本所深川(葛飾北斎)

この橋も他の橋と同様、元祿年間(1688〜1704)で2回、享保年間で13回も修理を要したので、幕府は経費節減のために廃橋にしようとしました。もし上流にある吾妻橋が、洪水で流されれば川下の橋まで壊され被害は広がってしまうと幕府は許可を渋っていましたが、延享元年(1744)経費の民間負担を条件に存続することに決まりました。

結局、修繕を繰り返したお陰で流された事は一度もなく、明治九年鉄橋に架け替えられた際に「吾妻橋」が正式名称となりました。その後、明治二十年に鉄製のトラス橋として再架橋となり、現在の橋は昭和六年に架け替えられたものです。

周辺の立ち寄りスポット

●東京スカイツリー&サントリーホール

隅田川に架かる吾妻橋の袂から見える平成二十二年(2012)に開業した東京スカイツリーと、隣に見えるサントリービルとホールが見える風景は、すっかり東京のフォトスポットとして定着しています。

●浅草寺と雷門

浅草の雷門。旅行雑誌で必ず出てくる名所。参拝した後に奥に見える仲見世商店街で人形焼を買うのが定番となっています。大提灯の左右には風神と雷神像が安置されていますので、正式には「風雷神門」と呼ばれ浅草寺の総門になります。慶応元年(1865)に焼失してしまいましたが昭和三十五年に95年ぶりに再建されました、

聖観音宗総本山 金龍山浅草寺」歴史は古く、推古天皇の時代に浅草浦の漁師だった檜前浜成と竹成の兄弟が漁をしていた時、網にかかった約5〜6cmの金色の観音像を祀ったのが始まりです(現在の御本尊である聖観世音菩薩)。

この御本尊を秘仏として定めたのが大化元年(645)という都内最古のお寺になります。徳川家康公以前にも源義朝・源頼朝・足利尊氏・北条氏康や坂東武者たちの尊崇を受けてきました。

隅田川に架けられた両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋。現在は、近代化ですっかり景色も変わってしまいましたが、江戸っ子たちの郷土愛は、橋の袂にある碑文と絵が伝えてくれています。現在では工法や架橋技術も発達し、観光誘発にと木製の橋が見直されるようになりました。

以上で「隅田川と四橋物語①②」でした。旅行雑誌には、あまり載っていない東京の名所でした。

隅田川と大江戸四橋物語①を読まれてない方はその①

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