【宮崎県】難攻不落の城と耳川古戦場/児湯郡木崎町 高城跡

宮崎県児湯郡にある「高城跡」。九州自動車道の高鍋ICの近く、小丸川と切原川の二つの河が側に流れる木城町にあります。このお城は「難攻不落の城」と言われました。

宮崎の県道304号線を使い北へ向かうと、目の間の丘陵に聳えるお城が現れます。こちらのお城跡です。

上に登るには二つのルートがありまして、一つは「徒歩」ですが、正面下の路地から階段へ通じる道を登ります。

こんな階段を上まで登って行きます。「げっ!階段キツそう!車で来たのに」って方は。

最初の正面T字路をに曲がり、少し走った先の分かれ道をまっすぐ右の道に入って

しばらく道なりに走らせると「城山公園」の案内板が見えてきます。案内に従い進むと

大きな駐車場に到着です。車中で休憩をされてる方もいらっしゃいます。

一見お城の様に見えますが、これは「メロディー塔」で決まった時間に音楽が流れる仕様です。平成四年ごろに「城山公園整備事業」で建立されました。

内部は、無人の吹き抜けで展望台の様になっています。その割りにはとても綺麗です。

こういう所にも、こだわりのが見えます。さて本題の高城城跡とは

「天正六年(1578)、天正十五年(1587)の二度にわたり、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が、島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏を潰そうと、約五万の大軍でこの城を攻撃しました。

しかし、高城城主山田新介有信はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを「高城川合戦」と呼んでいます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる十五万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。

これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将山田新介有信の名と共に語り継がれています。

城としての特徴は、現在城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった山田新介有信が侵入するのを防ぐための本部として利用していたと考えられます。

勇将 山田新介有信

島津貴久・義久公の二代に仕える勇将で、大友氏の南下に備え天正六年(1578)二月、義久公より日向の戦略拠点として高城の地頭に任ぜられ城主となりました。同年十月、大友氏の軍勢五万に囲まれましたが、百分の一の五百の城兵を指揮して戦い、敵の猛攻に耐え抜きました。その後、義久公の救援軍が到着し、翌十一月十二日、大友・島津両軍は小丸川周辺で激戦を展開しました。

最初は大軍に劣勢な島津勢でしたが、河川と湿地を上手く利用し戦いました。鉄砲隊の伏兵を潜ませた湿地に敵兵を誘い込み、足を取られたところを撃ち取る策を駆使すると、大友勢は川に溺れながら大混乱に。その乱れに乗じ山田勢が城から討って出て背後から急襲。大友軍は総崩れで北へ敗走し、耳川(高城川)の合戦を大勝に導きました。この勝敗が九州の勢力図を大きく塗り変えるきっかけとなりました。

天正十五年(1587)四月、高城は秀吉公の九州征伐の大軍十五万に再び囲まれましたが、またもや有信は籠城でよく耐え守り抜きました。島津義久公の本隊は敗れて撤退しましたが、有信は城を明け渡さず徹底交戦の構え。それを知った島津の使者の説得で、やっと有信は開城退去し、その後は豊臣秀長公に仕えました。

その後の山田新介有信

戦の翌年、高城での守備を義久公より賞された有信は家老に昇格しました。義久公が病になった際には正八幡宮に身代わりを祈願した有信。慶長十五年六月十四日に死去した時には、義久公が棺を国分城の門まで召し寄せて決別の焼香をしたといいます。

周辺のスポット

耳川の合戦場跡

高城城跡の近くの道路沿いにある「高城川合戦場跡」です。最初の戦いの場所です。一面農地ですが、昔は湿地帯なのが想像できます。

木城温泉館

ユニークで多種の温泉が楽しめる「木城温泉館」があり、休憩所にも使えます。面白い温泉館で、お土産はもちろん、自衛隊グッズやオートバイ関連の「神社」もあり、お食事もできます。

これは名物のダムカレーです。少し離れていますがダムがあり、そちらでもダムカレーが販売されています。