【滋賀県】本物の忍者屋敷と鍛錬した神社/甲賀市 甲賀流忍術屋敷・矢川神社

中世の歴史の中で、特に戦国時代に戦闘集団として活躍した「忍者」。後世に小説や漫画、アニメなどによって広められ日本のみならず海外でも人気がある〝NINJA〟たち。その歴史に因んだ施設や神社が数多く点在する滋賀県甲賀市を巡りました。

JR西日本 甲南駅

JR西日本草津線の途中駅「甲南駅」。コンクリート製で新しく綺麗な駅舎ですが、茅葺屋根の忍者屋敷を思わせるような外観で、近代的な中にも中世の忍者ロマンを感じさせます。

反対側のホームとは通路で繋がっています。外へ向かう階段通路には忍者に因んだ掲示物があります。

駅構内の階段通路には忍者に関する古文書の様なものが掲示されていて、当時使用していた忍者道具の情報をお勉強できます。

◾️「刃曲(はまがり)」忍器三 開器編

開器とは、敵の家や城の戸を容易に開けるための道具。刃曲は厚さも幅も小刀ほどの大きさで、先端の二本は、片側は刀の刃で、反対側はノコギリの刃となっていて、6寸(約18cm)の大きさにたたむことができる。敵の家に忍び込む以外にも多用途に使用できたと推測される。折りたたみ式のサバイバルナイフとでも言いましょうか。

◾️「用害術 脛払(すねはらい)」陰忍三 家忍編

家忍編では、敵の屋敷への侵入の仕方や用心の仕方が記されている。脛払は、敵の忍者の侵入に備え、屋敷の内外で忍び込む様な道々に設置し、敵の忍者が侵入時に引っ掛けると脛を打つ仕掛け。脛を打たれた忍者は、人に打たれたと思い撤退する。

◾️「こうかい星を以って時を知る」天時 天文編

天時天文編では、風雨の占いや潮の干満、方角を知る方法などが記されている。時間を知る方法として、北斗のこうかい(北斗星の杓を成す四つの星)の動きから推測していた。普段から天文観測を行い、あらゆることに備えていたことがわかる。」この他にも掲示されています。

「コロナにカトウ」と駅近くに看板が掲げられていました。甲賀地域は江戸時代に水口藩2万石が置かれ、幕末まで代々加藤家が治めていました。初代藩主は賎ヶ岳の七本槍で有名な加藤嘉明公の孫である加藤明友公。お膝元らしい檄ですね。

甲南駅からは南の方へ徒歩で田園の中を河川が流れる風景を眺めながら進むと、忍者の郷らしいお店や装飾が現れます。この交差点の先にあるのは

甲賀流リアル忍者館

こちらは観光インフォメーションセンター甲賀流リアル忍者館。甲賀忍者を観光に活かした施設で、営業時間10:00〜16:00まで 入館料は無料 休館日は月曜日(年末年始12月19日〜1月3日)

館内は、展示物だけの歴史資料館とは違い忍者の道具を使って忍者気分を体験できる施設となっています。家族連れの方が多いです。

フォトスポットもあり、忍者装束の衣裳も貸し出しをされていて、記念撮影できます。

こちらは水面を歩ける水蜘蛛が書いてあるフォトスポットです。ARもある様です。甲南駅からこちらの施設までのバスは無いようになので、タクシー(5分)を使うか徒歩(20分)で向かうしかないのが残念です。

そこから歩いて10分ほど離れた場所に「甲賀流忍術屋敷」へ向かえます。

甲賀流忍術屋敷

甲賀流忍術屋敷は、約300麺前に建てられた甲賀武士五十三家の筆頭望月出雲守邸宅です。よくある復元や移築ではなく、「本物の忍者屋敷」が当時のままの茅葺き屋根の姿で住宅地の中に佇んでいます。望月家は後に「望月仙蔵」「望月小太郎」という忍者を輩出しました。

入館料650円 ●営業時間 平日10:00~17:00(16:30まで受付)/土日祝日9:30~17:00(16:30まで受付)7月18日~8月31日の期間は、全日開館 ●休館日 毎週水曜日及び第4木曜日年末年始12月27日~1月3日休館、冬期休館 臨時休館もあるのでHPを要確認。

忍者が飲んでいた健保茶

入館料を払い、中へ入ると「健保茶」というお茶のサービスがあります。「600年程前より、体を整え、健康を維持する目的で使用されていた当家秘伝の忍者の薬草茶です。時代と共に改良を重ね、9種類の薬草により血流改善、内臓強化、美肌効果があると言われています。」

館内の展示物には忍者が活躍した戦国時代の甲冑や刀剣などが展示されており、モニター付きの解説映像を見ながら鑑賞できます。とてもかっこいいです。

忍者屋敷なので、忍者が使った数多くのカラクリ仕掛けが見学できます。右側の赤い忍者がいる床は〝どんでん返し〟になっており、敵が落とし穴に落ちる仕掛けになっています。(ちなみに、女忍者(くノ一)は、当時存在しませんでした。)

こちらは「しのび窓」と言って、味方の忍者が外から入れる鍵付きの窓で、窓の縁と壁のわずかな隙間に木の葉や薄い紙をそっと差し上下させ解錠できる仕掛けになっています。

落とし穴】別の場所にも約3メートルの落とし穴。穴は下に行くほど広くなっており、一度落ちると登ってこられないように作られています。本物の迫力です。

手裏剣「手で投げる小型の鉄製武器で、三方、四方など様々な形が考案された。用途は攻撃用ではなく、あくまで護身用に使われていたため殺傷能力よりも的中率向上、扱いの容易性、意外性、およに携帯性に優れていた。甲賀忍者は通常1〜2個携帯し、主に四方手裏剣を使っていたと伝えられている。」

こちらは手裏剣を使っての練習場です。ちびっこ向けですが何か本格的です。

縄梯子を忍者が使って登っています。本物の忍者屋敷なのでリアル感があります。

甲賀忍者ゆかりの矢川神社

甲賀駅から東へ徒歩で20分程の位置に御鎮座されている「矢川神社」。こちらも甲賀地区の武士・忍者ゆかりの神社です。

神社の前には古い石造りの太鼓橋、その先に茅葺屋根の立派な楼門と御社殿が見えます。矢川神社は「延喜式神名帳」に甲賀郡八座の一つとして記された式内社で大己貴命と矢川枝姫命を御祭神とし、中世には杣庄内22箇村の総社として「杣一之宮矢川大明神」と称されました。

また甲賀の雨宮とも呼ばれ、雨乞い祈願の神社として知られていました。滋賀県の指定文化財である茅葺の楼門は文明十四年(1482)に建てられたもので、雨が降ったお礼に大和国山辺郡(奈良県)五十ケ村から寄進されたと伝わります。

本殿は甲賀地方でも特筆すべき大型の社殿で、近江八幡の大工、高木但馬により宝暦五年( 1755)に造営されたものであり、三間社前室付流造の建造物として市の指定文化財となっています。境内地は近隣の五つの城跡と共に国指定史跡「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつに指定されています。

甲賀の侍衆たちは、こうした鎮守社の神前にて日々の鍛錬や合議の場として利用しながら、結束を固めるための拠り所となりました。

泰平の時代になると、忍者の活躍の場も次第に少なくなり、鍛錬を続けていた忍者たちも帰農する者が増え、ここに集まる忍者たちも暇を持て余す日々が続くようになりました。

境内の一画に、その光景を詠んだ歌碑があります。風化し読みにくいですが、

「甲賀衆や しのびの賭けや 夜半の秋」。夜な夜な集まって賭け事をやっていたようです。

忍者と言われた逸話の人物

◼️松尾芭蕉

江戸時代前期の廃人で伊賀国(三重県伊賀市)に生まれた。実は忍者だったかもしれないという話は有名ですね。その根拠となる話の一つ「奥の細道」で弟子の河合曽良の記述が食い違う点が見られる所。実は全国を旅していたのは伊達藩の探索が目的であったのではないかと言われています。

◼️猿飛佐助

甲賀忍者として最も有名で知られている人物。明治末期に刊行された「大日本人名辞典」に紹介されている内容に記述によると、忍術家で名は幸吉。森備前守の浪士、鷲尾佐太夫の子で真田幸村に従って功績をあげていったとされ、忍術は戸沢白雲斎に教えられたとあり、真田家と同族と言われる信州諏訪出身の望月家の忍者が真田幸村のもとで「猿飛」の異名で活躍したとの説もあります。

◼️石川五右衛門

こちらも有名ですね。以前ご紹介した伊賀上野城のページでご紹介しました。

「忍者が修行した滝/赤目四十八滝」はこちら

甲賀五十三家と甲賀士二十一家

甲賀地方には、江戸時代に「甲賀(古士)二十一家」と呼ばれた苗字帯刀を許された郷士制度の者たちがいました。

甲賀二十一家

頓宮、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯三家、和田三家、上野五家、大原一粟(竹嶋・笹山二家・勝井・山岡・竹林)、滝一族(滝六家・飯田)、池田四家、望月四家、服部、芥川二家、鵜飼三家、内記、山中八家、伴二家、美濃部四家

彼らは京、紀州、松平越前守、前田家、尾州、松平丹後守などの大名に仕え、江戸幕府旗本八幡騎の予備軍として甲賀古士は、江戸青山甲賀町(港区北青山)、新宿百人町などに甲賀屋敷を構え居住していました。写真:江戸城(東京)

長享の乱で活躍した五十三人の甲賀武士(甲賀五十三家)

 その甲賀二十一家が最初に名を挙げたのは、各地の荘園を治める在地領主の勢力争いが激しくなった室町時代。中でも近江国佐々木六角判官正頼、高頼父子の領内は特に著しく、比叡山領、公家領などの数々の押領が相次ぎました。

訴えを受けた将軍足利義尚は、長享元年(1487)八月十二日、全国諸大名に六角高頼追討を発令、九月十二日に追討軍は京を発ち近江へ進軍を開始。世に言う「長享の乱」です。九月二十四日、室町幕府軍は六角高頼の本城である観音寺城を攻め近江湖畔の平野をほぼ平定。六角高頼は城を捨て甲賀の石部城(甲賀五十三家青木秀正・石部家長父子の居城)へ逃れました。

その後も諸大名の参陣が相次ぐ幕府軍は、意気揚揚と甲賀口である鈎(まがり_現滋賀県栗東町鈎)まで進軍し本営とします。一方、石部城へ逃れていた高頼は、甲賀武士を味方につけると約二万五千の幕府軍へ向けて夜襲を決行。

勝ち戦にすっかり油断していた幕府軍は虚を突かれて総崩れ、都へ敗走する者が続出。本営は動けず足留めを余儀なくされました。この「長享の乱鈎陣」の戦いで将軍義尚も負傷し翌年三月、二十五歳の若さで他界した事で戦いは中止されました。

この夜襲に参加し手柄を挙げた甲賀武士五十三人、その中でも二十一騎の武勇は、諸大名を通じ「甲賀五十三家・甲賀二十一家」の名は全国に轟きました。威厳を失った室町幕府将軍足利義稙は甲賀総攻撃を命じますが、その後幾度も六角氏共々討ち取ろうと甲賀を攻めましたが失敗。凌ぎ切った甲賀武士団は、名実ともに甲賀の領主となりました。その後、甲賀では社寺の建立が相次ぎ、甲賀六大寺、八所二座と栄え、新しい甲賀武士団の時代になりました。

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