萩城跡と萩八景遊覧船を楽しんだ後に向かった先は、やっぱり高杉晋作公が生まれた萩の城下町。世界遺産にも登録されています。萩城の隣に上級武士の住まいだった城下町エリアには、名のある幕末の志士たちの誕生地があり、現在でも綺麗に良く整備されています。
萩循環まぁーるバス

名所を回る際に便利な「萩循環まぁーるバス」を利用しました。
晋作公が育った萩城城下町

高杉晋作公が生まれた地は萩城跡の隣に広がる武家屋敷の一角、呉服町菊屋横丁にあり、現在でも綺麗に保存されています。
高杉晋作公の誕生地

萩城下町の中にある「高杉晋作誕生地」。【観覧時間】午前9時から午後5時まで。【観覧料】大人1人100円(中高生50円・小学生以下無料)。

玄関から見た部屋の様子です。※部屋の中へは入れませんが、とても綺麗ですね。

「萩藩士高杉小忠太(家禄二百石:大組:旗本にあたる位)の長男として天保10年(1839)八月二十日に生まれた。ご先祖様は備後の高杉に城を構えていたとされ、毛利家の移封に伴い萩に移り住んだという。安政4年(1857)、久坂玄瑞のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを受けた。

奇兵隊の創設、四国連合艦隊との講和談判、下関挙兵などを行い、明治維新のため力を尽くしたが、維新の実現を見ることなく、慶応3年(1867)。28歳の若さで病死した。

旧宅内に晋作の写真や書などが展示され、邸内には自作の歌碑や詩碑、産湯に使ったと言われる井戸がある。」

「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」
文久三年(1863)三月十五日、時の藩政に不満をもった晋作公が、十年間の暇を申し出て許され、剃髪し心境を歌に詠み「東行」と号しました。西へ行く人とは西行法師のことで、東とは江戸へという意味が込められています。

お馴染みの晋作公の顔写真は剃髪後に髪を伸ばされた時のお姿。現在人と変わらない髪型なのが驚きです。西洋風断髪日本人第一号とも言われています。
晋作公園

誕生地の向かい側にある区画には「高杉晋作立志像」が建つ晋作公園があります。剃髪前のちょんまげ姿の長州藩士晋作公。
高杉晋作と伊藤博文が幼少期学んだ金比羅社・円政寺

高杉晋作公と伊東博文公が幼少期に学んだ「金毘羅社・円政寺」。元は建長六年(1254)鎌倉時代に大内氏の祈願所として山口市に創建されました。大内氏滅亡後、毛利輝元公が萩に来られた際に萩市塩屋町に移され毛利氏の祈願所に。

明治時代の神仏分離令により、明治三年(1870)現在の場所にあった法光院が廃され、円政寺と改名しました。全国でも珍しい神仏とお寺が習合した形態です。

こちらには晋作公ゆかりの【大天狗の面】があります。金毘羅様と言えば天狗ですね。

「鈴の所にあります。高杉晋作は小さい頃、病弱で母親(道=みち)は、ここ金毘羅社で健康を祈願し、拝殿の大天狗で勇気づけたという。」

「この神馬は文政三年(1820)金子音松氏が金毘羅社に奉納したもので名工安永貞右衛門の作である。高杉晋作(1839年生)伊藤博文(1841年生)は子供のころ、この境内が遊び場所でありましたので、いつもここにきては馬の鼻をなぜていたという話です。神馬は雄ですよ。」
伊藤博文公の出会い

高杉晋作公と伊藤博文公(右)「伊藤博文は、錦帯橋がある山口県岩国市の近く、熊毛郡大和町東荷(現在の光市)の農家の生まれです。父は林十蔵、母は林琴子、伊藤博文は林利助です。

林家は熊毛郡の農家です。農家の家が台風で被害を受けて住む家を求めて萩の法光院へ。法光院住職恵運と伊藤博文の母である林琴子が従兄妹にあたり、11才になる子供、林利助を一年間半預けました。

恵運は寺の雑用はもとより、読書・習字に、そして行儀作法に厳しく躾けた。正面の右側の売店の中にレンガで作った硯、雑用に使った背負子、総理大臣になって書いた掛け軸が展示してあります。

子供を寺に預けた伊藤博文の両親は、萩市の松蔭神社近くの伊藤直右衛門の家にお手伝いとして入家。やがて博文16歳の時に一家をあげて伊藤家の人間となり名前を伊藤俊輔に。写真:松蔭神社

17歳の時に松下村塾に入門。21歳の時に長州ファイブの一人としてイギリス留学、28歳の時に兵庫県知事、名前を博文に改名する。44歳で初代総理大臣、68歳の時にハルビンで凶弾に倒れる。高杉晋作が2歳年上で近所の幼馴染み、博文の名付け親は晋作である。」写真:松下村塾
御朱印

円政寺さんの期間限定御朱印、〝松ぼっくり〟は拝殿にあり参拝記念に自由に持ち帰れます。
青木周弼旧宅跡

十三代長州藩主毛利敬親の侍医青木周弼旧宅。嘉永元年十二月、晋作公10歳の時、当時大流行していた天然痘(疱瘡)にかかり高熱で命の危機に見舞われました。幸いにも同じ町内にシーボルトからオランダ医学を学んだ青木周弼、研蔵の兄弟がおり、その適切な手当てにより一命をとりとめました。周弼は、久坂玄瑞の兄玄機と共に萩藩で天然痘の治療を行っていました。
久坂玄瑞の誕生地

【西回りコース:河添・椿・川島】「久坂玄瑞誕生地前」バス停横。松下村塾では、晋作公と双璧・龍虎と呼ばれた久坂玄瑞公は、天保十一年(1840)五月、萩城城下平安古八軒屋に住む藩医久坂良迪(りょうてき)・富子夫妻の三男として生まれました。


現在は、歌碑や解説板があります。「文久二年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤王党首領武市瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪れた。龍馬は萩に9日間滞在する。その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。そして薩長同盟、大政奉還など、歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。

幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立も危ぶまれていた。久坂玄瑞は長州藩を訪れた龍馬に、師吉田松陰の草莽崛起論を説く。「ついに諸侯(諸大名)恃むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、暴挙の外はとても策これ無し…失敬ながら尊藩(土佐)も幣藩(長州)滅亡しても大義なれば苦しからず」。

晋作公は八歳になり萩の吉松塾(寺子屋)で勉学をはじめました。そこで親友となる久坂玄瑞と出会います。気の合う二人は共に長州藩の藩校である明倫館小学部へ晋作14歳、玄瑞13歳で入学しました。現在も萩市には明倫館を見学する事ができます。
萩・明倫学舎

【西回りコース東回りコース共通】「萩・明倫センター」【営業時間】本館・二号館午前9時〜午後5時まで、三号館市民ギャラリー午前9時〜午後6時まで、四号館コワーキングスペース午前9時〜午後9時まで【休館日】2月第1火曜日およびその翌日

【観覧料】本館無料(観光案内所やお土産品店コーナーなど)二号館(歴史ミュージアムなど)大人300円、高校生200円、小中学生100円。市立明倫小学校の地が萩藩明倫館跡です。

明倫館は享保三年(1718)長州藩五代藩主毛利吉元のとき創建。毛利家家臣を教育するための藩校で、旧明倫館は萩城三の丸に創設され、嘉永二年(1849)にこの地に新明倫館として移転拡張されました。ペリーが浦賀に来航する四年前のことです。
有備館と〝武人〟高杉晋作

こちらは明倫館の敷地内に建つ有備館。無料で中に入れます。「有備館は剣術と槍術の稽古場で、藩校明倫館内に建築された。木造一重入母屋造り桟瓦葺きで平屋建て、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物である。

内部の北半分は板間39畳を剣術場、南半分は土間54畳を槍術場とし、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室がある。ここは藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修行者との試合場、すなわち「他国修行者引請剣槍術場」でもあった。」

あの土佐の坂本龍馬や剣の達人で知られる神道無念流の剣客斎藤新九郎も萩を訪れ稽古したと伝わります。それらの剣客に刺激を受け、日々剣術に情熱を燃やし稽古に励んだ晋作公。

二十二歳のとき萩の剣術指南役内藤作兵衛より柳生新陰流の免許皆伝を受け、自らも武人と称すほど剣の達人になりました。
盟友 久坂玄瑞の少年期

一方、久坂玄瑞の少年期はというと壮絶でした。兄の玄機は父と同じ医術と蘭学を学び、当時流行していた天然痘(疱瘡)予防対策である牛痘接種法を青木祥弼・赤川玄悦と共に萩藩で初めて成功させ、多くの命を救いました。立派な兄を慕う玄瑞も勉学に打ち込み、「秀才」と呼ばれるように成長します。

しかし、そんな玄瑞に不幸が立て続けに襲いました。玄瑞十四歳のとき母が病没、一年後に兄も病で亡くなり(下の兄も早くに亡くなり)、さらに父良迪までも、家督を玄瑞へ譲った後に亡くなってしまいました。わずか一年で家族を失い孤独の身となった久坂玄瑞….。
しかし、そんな逆境に彼は負けませんでした。十七歳になった安政三年(1856)三月、父と兄の三回忌を済ませ萩を出て九州へ旅立ちました。

豊前(大分北部)→筑後(福岡南部)→肥後熊本→肥前長崎と三ヶ月をかけて巡り、福岡では、鎌倉時代に起きた元寇の際に亀山上皇が掲げられた「敵国降伏」で知られる筥崎宮を参拝し、改めて国防の大事さを考えます。写真:筥崎宮(福岡市)

熊本では、戦国武将の加藤清正を起こそうと本妙寺清正廟を参拝しました。かつての勇ましい戦国武将や武者たちはもういません。大陸清国もイギリスに敗れました。恐怖に震える民百姓と共に危機感を募らせる玄瑞。写真:清正廟(熊本市)

さらに吉田松陰の親友である山鹿流兵学者宮部鼎蔵を訪ね、欧米列強に対する海防問題について話し合いました。写真:宮部鼎蔵旧居跡(熊本市)

九州への旅を終え萩に戻ると、宮部鼎蔵に教えてもらった吉田松陰と何度か手紙のやり取りをした後に松下村塾に入門しました。
桂小五郎(木戸孝充旧宅)誕生地

同じく松下村塾で学んでいた「木戸孝充誕生地」。【入館料】100円。初名:桂小五郎は、天保四年(1833)六月二十六日、萩藩医和田昌景の長男として、ここで生まれました。

8歳で石高150石の桂家の養子となりましたが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしました。初名は桂小五郎、17歳の時に藩校明倫館で吉田松陰に学学びました。

松蔭門下となり江戸に遊学し、維新時には長州藩倒幕運動の指導者として活躍。薩長同盟を推進し維新三功臣の一人(西郷隆盛・大久保利通と並ぶ)。明治新政府の参議となるが、西南戦争の最中京都にて45歳で病没。
周辺スポット
●山縣有朋公騎馬像

萩・明倫センター横の公園の一角に建つ「山縣有朋公騎馬像」。山縣有朋公は、萩出身で松下村塾に学び、幕末は奇兵隊の軍監として活躍しました。明治維新後は陸軍トップ、首相、そして元勲として功績を残しました。
●三矢の訓え

萩市役所横に建つ銅像「三矢の訓え(さんしのおしえ)」。毛利元就が隆元、元春、隆景の三人の息子にあてた教訓状をもとに作られた説話である。毛利家の将来のため、一家の頭領として三人の子供に一致団結を切々と説き一本の矢なら簡単に折れるが、三本まとめて束にすれば折れない。と諭したと伝承されています。
●菊ケ浜(海水浴場)

【西回りコース:土原・堀内・山田「菊ケ浜入口・萩一輪前」
萩城の東に広がる砂浜「菊ケ浜海水浴場」は萩の名勝地として知られています。手前には大きな旅館・ホテルが軒を並べ、修学旅行で泊まった学生時代を懐かしむ人が多いのではないでしょうか。ゴミひとつ落ちておらず綺麗なビーチです。
●女台場入口

【東回りコース】浜崎・新川・上野「女台場入口」。街から海が近くて「萩市羨ましい!」と思います。文久三年(1863)当時、尊皇攘夷を掲げる長州藩は、下関・関門海峡を通過する外国船に砲撃しました。しかし翌年四カ国連合艦隊の報復によって大きな被害を受けました。
そこで萩に残る人達も外国船の襲来に備えて、菊ケ浜に約2kmの土塁を築きました。多くの藩士は下関へ出向き、城下に男手が無いことから台場築造工事に多くの女子、特に武士の妻や奥女中たちが手伝ったことから「女台場」と呼ばれています。
おまけに雨の日の女台場です。やっぱり天気予報は大事ですね。

今回♯萩旅には、こちらのトラベルパスが便利です。各種割引クーポンも付いてます。萩・明倫センターやバスセンターなどで入手できます。名物の日本原産の夏みかんの絵柄が目印です。
次は、多くの偉人たちが学んだ松下村塾へ向かいます。























男子蓮桑の志、飄然として覇城を出づ 雲烟三月よろし 書剣九州の行