【鳥取県】山陰武将の夢の跡/米子市 米子城跡

島根県との県境にある鳥取県の米子市。日本海と中海を臨む望む湊山に築かれた米子城。当時の建物は明治時代に取り壊され石垣だけが当時を偲ばせますが、山頂の本丸から眺める360°のパノラマは爽快で、大山方面から登る朝日や日本海に沈む美しい夕日を眺める事ができるビューポイントとして人気があります。

米子駅から、赤い周遊バス「だんだんバス」に乗り、米子城跡へ向かえます。

バス停を降りて、湊山山頂に見える石垣を眺めながら周りをグルリと散策。晴れた日は、特に石垣が美しく見えます。湊山と道路を挟んだ隣の「飯山城跡」に案内板があります。

柳生奮戦の地と飯山城跡

「約500年前に築かれた伯耆、出雲の国境の重要な砦で、中世には山名、尼子、毛利など戦国の攻防戦が繰り返された。山頂には、南北85m、東西約35mの曲輪が古い二段の石垣で築きあげられている。

湊山と山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東の砦となった。慶長八年(1603)十一月、家老横田内膳村詮が主君中村一忠に暗殺されると横田方が反旗を翻し、飯山に立て篭もって激しい戦いが起こった。これが世に言う「米子城騒動」「中村騒動」である。

この時、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて中村方を多数打ち取ったと武勇伝は有名である」

米子城へ登城

お城の入口には、乱積見された石垣が積まれています。下から徒歩で登ります。

最初に現れるのが「旧小原家長屋門」「この長屋門は、市内西町の小原家にあったが、昭和28年米子市に寄贈され現在地に移築し、市立山陰歴史館として昭和59年まで利用してきた。小原氏は、米子荒尾家の家臣で禄高120石であった。」建物自体は江戸時代中期の建築だそうです。

こちらのお城跡の特徴は、展望台のようなロケーションの良さです。山城特有の木に囲まれ風景が楽しめないということがありません。夏場でも綺麗に刈り取られています。

とてもいい景色です。湖・日本海・大山が見渡せます。

下城途中に見かけましたが、裏には無料駐車場がありました。大通りから少し入りますが、レンタカーの方はこちらに停められそうです。

米子城の歴史

米子城は室町時代中期:応仁1467〜1487文明年間、飯山(三の丸)に山名宗之公によって砦が築いたのが始まりとされています。

山名氏はここを境い目として、出雲を治める尼子氏との間で激しい戦いが繰りひろげました。その後、尼子氏が毛利氏に敗れ滅亡し、毛利氏側の福原元秀が米子城を守っていましたが、

永祿十二年(1569)山中鹿之助公が尼子の旧臣を糾合し尼子再興の旗を上げたのは、「尼子十勇士」の秋上庵ノ介だった。※写真は山中鹿之助公。尾高城攻略の前哨戦にするべく攻めかかりましたが、陣中で急病になってしまい、家臣の羽倉権兵衛が代理として500の兵を率いて海上から急襲し元秀を討ち取りました。

隙を突かれた毛利氏は急いで城を取り返したのち、出雲広瀬の月山富田城主だった毛利元就の子吉川広家公を入城させました。※写真:山陰歴史館所蔵天正十九年(1591)広家公は、さっそく飯山の隣の湊山に本格的な城郭「米子城」の築城に取り掛かりました。お城には絵図の通り大小天守を備えた立派な城郭だったと言う。※写真は吉川広家公

しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に西軍として敗れた吉川氏は、完成を見る事なく岩国へ移されました。徳川政権になると、伯耆十八万石の領主であった中村一忠公が入り、慶長七年(1602)に米子城を完成させました。

一忠公が急死により断絶、続いて加藤貞泰公、池田由之公を経て、寛永九年(1632)には、鳥取藩主筆頭家老の荒尾成利公が米子城預かりとなり、以後荒尾氏が十一代に渡って治める事になりました。明治二年(1869)に、米子城は士族に払い下げられ全ての建物が取り壊されましたが、天守台からの眺めは爽快です。

JR西日本 米子駅

建物が新しく綺麗な駅舎で、アンモナイトみたいなオブジェ(合掌した両手を表現)があります。

駅といえば、楽しみなのが「駅弁当」ですね。やっぱり名物は「かに寿司」ですけど

あえて珍しい「黒めし」を選びました。イカの絵がありますのでイカスミでしょう。

蓋を開けてみると黒い御飯とイカがいっぱい!唐揚げも入っています。これで1500円は良心的だと思います。選んで良かった。

最初にご紹介した通り、米子駅のバスロータリーから赤い「だんだん」バスに乗り、歴史コースで周遊すると観光案内所へ向かえます。

天神町一丁目バス停で降りて、橋を渡った先にある「米子まちなか観光案内所」でいただけます。御城印の他にもいろんなグッズが販売されています。