【滋賀県】甲賀忍者の郷/甲賀市 油日神社・和田城跡

中世の戦国時代に登場し、忍術と言われる独特の戦法で時の将軍も恐れた戦闘集団「忍者」。後に講談や映画で大ヒットしましたが、その実態は謎の部分も多く興味をそそられます。その「忍者」の発祥地と言われる滋賀県甲賀市を巡りました。

JR西日本 油日駅(あぶらひえき)

ユニークな駅舎が目を引くJR西日本草津線の「油日(あぶらひ)駅」。デザインは地元の小学生が考えた「忍者が巻物を口に加えながら手で印を結んでいる姿」を元に製作されたそうです。面白いですね。

入口には忍者の格好をしたタヌキの置物がお出迎えしてくれます。

忍者屋敷をイメージした駅舎内の待合室には、レンタサイクルがズラーっと並んでいます。無人駅では無く駅員の方がおられますので、借りる際の受付をしていただけます。散策するには欠かせません。

周辺には勾配がありますので、電動アシスト付き自転車がオススメです。

忍者発祥地油日神社

忍者発祥地「油日神社」と「甲賀市歴史民俗資料館」へ向かって出発。

住宅地の中に佇む赤い鳥居。油日駅から油日神社は近いように見えて距離が結構あリます。

油日神社へ1キロぐらい自転車を走らせます。電動アシスト付きでよかったと思いました。

油日神社に到着。左側が駐車場になっています。誰もおられず、社務所も閉まってました。

神社の横には「甲賀歴史民俗資料館」の建物がありますが、予約制らしく訪れた日は休館で入れませんでした。コロナウイルスの影響もあるので仕方ありませんね。

「油日神社は南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座する古社で、古くは油日岳を神体山とし、社伝では頂上に大明神が降臨して、油の火のような光明を発した事から油日の名が付けられたとされ、山頂には岳大明神が祀られています。

油日大明神を主神とし、罔象女命(みずはのめのみこと:水神)、猿田彦命(さるたひこのみこと:道開きの神・旅の神)を祀り、「日本三代実録」によれば、平安時代の元慶元年(877)の条に「油日神」が神階を授かったことがみえます。

室町時代に作成された「油日大明神縁起」には、聖徳太子によって勧請された由来が説かれ、「聖徳太子絵伝」をはじめ、太子の本地である如意輪観音の懸仏や「聖徳太子絵伝」が所蔵されており、中世には甲賀武士たちが聖徳太子を軍神として崇めるとともに「甲賀の総社」として信仰されていました。

明応四年(1495)に建てられた本殿は、近隣の多くの武士たちが力を合わせて寄進したもので、戦国時代には油日神社が甲賀衆たちの拠り所となっていた事がわかります。(案内板より)

甲賀の五十三家

長享の乱で活躍し名実共に甲賀の領主になった甲賀五十三家・二十一家は、独自の支配制度を確立しました。それは誰か一人が領主として治めるのではなく、各家が各地区で集まり物事を合議制で決める「甲賀郡中惣(こうがぐんちゅうそう)」という自治体制を用いました。

甲賀五十三家

山中、美濃部、伴、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀俄、大原、上野、多喜、池田、和田、高峰、鳥居、大久保、上田、隠岐、神保、佐治、岩室、大野、土山、頓宮、平子、鮎河、大河原、黒川、芥川、望月、野田、饗庭、服部、葛城、山上、鵜飼、内貴、青木、宮島、針、高山、夏見、杉山、長野、小川、多羅尾、倉治、杉谷、三雲、牧村、上山、泉

しかし、天正十三年(1585)秀吉公が紀州太田城へ水攻めをする際に甲賀衆へ頼んだ堰の管理に不手際があったとし、多くの武士が改易(平民)になってしまいました(甲賀ゆれ)。

秀吉公は家臣の中村一氏公を城主とし「水口岡山城」を築かせ、甲賀衆を家臣として組み込まれ独自の甲賀郡中惣は終わりを告げました。写真:水口岡山城(甲賀市)

戦国時代が終わり泰平の世が訪れると彼らの居場所だった数多くの城も取り壊され、仕事も次第に減っていき暇を持て余すようになり、帰農して畑仕事や土木工事に従事する者や薬売りや新たな仕官先を求めて全国に散らばっていきました。

甲賀二十一家の武将 和田惟政公わだこれまさこう

JR油日神社から南へ少し南へ進むと歴史に名高い場所に着きます。こちらは途中にある「幻の和田城」というお城の模型。和田城は戦国時代に活躍した「和田惟政」という武将の居城でした。

和田惟政公は、享禄三年(1530)近江国和田村に生まれました。幼少の頃から近江源氏佐々木六角氏に仕え、定頼公の命を受け足利幕府の世子菊童丸(足利義輝公)に御供衆として仕えていました。成長に伴い武功度々に伊賀守に叙任されました。

永禄八年(1565)足利13代将軍義輝公が逆賊松永久秀などの謀殺され、義輝公の弟で奈良興福寺一乗院門跡覚慶殿(後の足利義昭公)にも危険が及んできた時、将軍の直臣であった細川藤孝は大和の米田求政と語らい覚慶殿に仮病を使わせ、求政が医師に化けて寺内に入り込み衣服を取替えて首尾よく寺の外へ連れ出すことに成功しました。永禄八年七月二十八日の事でした。

覚慶殿(足利義昭公)を連れた一行は、奈良から上柘植(かみつげ)を経て、甲賀郡和田村の惟政の館へ入りました。その館があった場所は「和田公方屋敷跡」として史跡となっています。通りの標識から住宅地へ入った先に五輪塔があります。

和田惟政公は足利15代将軍となる足利義昭公に仕え、織田信長公と義昭公を結び付けて自身は信長公の武将として甲賀武士団を統率して信長公の天下布武に貢献、足利幕府の再興に尽力しました。

家康公の伊賀越えゆかりの城 和田城跡

和田公方屋敷跡から南へ更に500m先に行くと「和田城跡」があります。小さいですが駐車場も完備。

とは言っても、この辺りに数多くある山城の一つで、石垣や建物などはありません。人通りもなく静かな山城跡です。

中央に向かって登ってみると虎口という立て札が見えてきました。入口をわざと狭くして、敵兵が来た際に両側の盛土の上から攻撃できるようになっています。

中央の曲輪に着きましたが、特に石碑や祠などはありません。元亀二年(1571)八月、隣の池田知正との境界争いに端を発した戦闘が世に有名な白井河原の合戦となり、荒木村重・中川瀬兵衛などと激突、和田惟政公は部下200と共に玉砕。子の惟長公は摂津国高槻城主になりました。

この和田城、あの徳川家康公の伊賀越えの際に立ち寄り、和田惟政の縁者である定教が道案内したと言われています。写真:徳川家康公肖像画

「和田谷の城館群」この辺りは和田谷と呼ばれ、和田城の支城跡が中世のままの姿で沢山残されています。支城の城主たちがお互いに連携し合って甲賀を守っていたと考えられます。

その他にも油日には、甲賀五十三家の名と同じ城跡がたくさんあります。全部巡るのは大変ですが。

殿山城跡

和田城の近くにある殿山城跡にも訪れました。が、

こちらも和田城のように杉林と雑草のほかは、何もありませんでした。数百年前に廃城となった中世の山城なので仕方ありません。とは言っても杉は、家や船などの大きな物から日用品、ご飯やお風呂を炊く燃料にまで利用できる大事な樹なので、大量に植林されていたと思われます。

JR西日本 甲賀駅

JR油日駅の一つ隣にある「甲賀駅」。訪れた人が真っ先に気付いて驚く事。「こうがでは無くこうかと読むんだ〜」。甲賀忍者の読みでそう覚えちゃっていましたが。

駅舎も日本家屋をイメージさせる屋根がついています。甲賀ですからもちろん駅舎の中には

忍者がいっぱいいます。

天井から現れる曲者写真が撮れるフォトスポットですね。

中の通路も襖の廊下と手裏剣がイメージしてあり、天井にも忍者がいるようです。凝ってますね。

備え付けの自販機にも忍者がいますよ。忍者の里ですからね。

(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(じん)・烈(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)

自販機には「忍者の呪文 九字護身法」が書いてあります。この呪文を唱え、任務や戦いの前に気持ちを落ち着かせたと言います。

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