【東京都】大岡越前と縛られ地蔵/葛飾区 南蔵院

 時代劇ドラマで有名な「大岡越前守忠相(ただすけ)」。痛快な名裁きの町奉行として人気を博した実在の人物。頭脳明晰の切れ者で、徳川幕府六代将軍吉宗公が信頼する腹心として数々の事件を解決させた逸話が今でも轟いてます。代表的なエピソードの一つにちなんだお寺があります。

JR東日本の金町駅からバスに乗り、「しばられ地蔵」のバス停で降りて住宅地の中を抜けた先にある「天台宗 業平山 南蔵院」。こちらには一風変わったお地蔵様がおられます。

業平山東泉寺南蔵院の由緒は、貞和四年/正平三年(1348)に林能法師の開創に成り、境内の地蔵堂に「しばられ地蔵尊」を安置。開創当初は、在原業平朝臣下りの緑の地墨堤の畔にあり、業平山の山号より起こる。寛永年間に本所中之郷に移り三百年かの地に在りましたが、大正十二年の大震火災の厄に遭い、昭和四年に現在地の水元に移りました。

お地蔵様を探しに境内へ。奥の方に本堂があります。

ありました。こちらが「しばられ地蔵」様。幾重にも荒縄でぐるぐると縛られたお地蔵様が。「しばられ地蔵尊」は昔より盗難除け、足止め、厄除け、あらゆる願い事を叶えるとして祈願するものが多く、祈願者は先ず地蔵尊を荒縄で縛り成就の暁には、これを解く風習となっています。

最初に本堂にお参りしたのち、こちらで一本百円にて縄を取り、お地蔵様を縛り願掛けができるようになっています。なぜ、縄でしばる事に、どんな由来があるのでしょう。

しばられ地蔵と大岡越前守忠相

時は江戸の享保年間、8代将軍徳川吉宗公時代の暑い夏の昼下がり、日本橋のさる呉服問屋の小僧さんが荷車に反物を満載し南蔵院の門前を通りかかりました。ここらで一服と門前に荷車を停めて、境内の銀杏の木陰にて涼をとり、ついウトウトと一眠りしてしまいました。

目が覚めてみると、門前の荷車が無くなっているではありせんか。さぁ大変!小僧さんは真っ青になり、急いで番所へ届け出ました。そして当時名奉行として名を馳せていた大岡越前守忠相公の取り調べとなりました。そこで大岡越前守公が発した驚くべきことに、

大岡越前守

寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは門前の地蔵も同罪なり!直ちに縄を打って召し捕って参れ!

お地蔵様

・・・・・

地蔵様は、体に縄でグルグル巻きに縛られた後、荷車に乗せられ与力と同心たちに守られながら江戸市中を曳き廻され、一路南町奉行所へと向かうことに。

すると、物見高い江戸っ子たちが、どんなお裁きが始まるかと一目見ようと奉行所へなだれ込みました。頃を見計らった大岡越前守は門を閉めさせ

大岡越前守

天下のお白州へ乱入するとは不届き至極!その罰として反物を一反の科料申付ける!

その日のうちに奉行所には反物の山が出来ました。小僧さんに調べさせると、その中から盗まれた反物を発見し、当時江戸市中を荒らしていた大盗賊団を一網打尽をすることが出来ました。大岡越前守は地蔵尊の霊験に感謝し立派なお堂を建立し盛大な「縄解き供養」を行いました。

それ以来、「しばられ地蔵」と呼ばれ「盗難除け」「足止め」「厄除け」「縁結び」の地蔵尊として願い事をする時は縛り、叶えば縄解きする風習が生まれ、今でも参拝客で賑わいます。

その他、本堂の裏には、柄杓で瓦の上から水をかけると竹筒から「カランコロン」と涼しい音が聞こえる「水琴窟」というものがあります。

「しばられ地蔵尊」の印の入った御朱印をいただけます。

大岡越前守忠相公 延宝五年(1677)〜宝暦二年(1752)

江戸幕府の旗本である大岡忠高の四男として生まれる。大岡大岡越前守忠相(ただすけ)公は抜群の頭脳の持ち主で、江戸幕府六代将軍徳川吉宗公の信頼が篤く、瞬く間出世して「江戸町奉行所」の名奉行として20年あまり活躍。名裁きで有名になりました。その他、享保3(1718)年には町火消をつくり、その後「いろは組」(47組)に組み分けしました。享保15(1730)年には編成をいろは四十八組とし、本格的な町火消制度を発足させました。

JR東日本 金町駅

JR東日本の金町駅。こちらから南蔵院まではバスの本数が多いのです。

南町奉行所跡

有楽町駅にある「南町奉行所跡」。今でも復元した石垣が積んであり石碑が建っています。「江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行の一つでした。江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北量奉行に分かれて月番で交代に勤務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保二年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。

南町奉行所は、宝永四年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地になりました。その範囲は有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

北町奉行所跡

JR東京駅の裏にある「北町奉行所跡」。「江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化三年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、天保十一年(1840)から十四年(1843)まで当所で執務をしていました。

平成十二年からの発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここで復原した石組みの溝は、ここから西方約30mの地点で発見されました。屋敷北東角の道路との境を巡る下水溝の一部です。

この遺構は、本来3〜4段の石組みであったものと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのは、邪鬼が進入する鬼門である良(うしとら:丑寅)の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています。

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