【熊本県】南阿蘇の古城道/高森町高森城跡

熊本の景勝地である阿蘇。その阿蘇五岳の南側の地区「南阿蘇(南郷谷)」にかつてあった中世のお城跡を廻りながら、戦国時代の歴史に触れてみます。

熊本市内より菊陽バイパスを通り大津町を目指した後、北側復旧道路側へは行かずにそのまま真っ直ぐ進み

新阿蘇大橋を渡り国道325号線をまっすぐ進めば高森町へ着きますが、今回は史跡の多い旧道を進み高森地区を目指します。途中にあるファミマ交差点を右折すれば、鉄道と並走する旧道へ進めます。

南阿蘇鉄道 阿蘇下田城駅

まず最初に立ち寄ったのは、立野から高森を結ぶ南阿蘇鉄道の駅「阿蘇下田城駅」。駅舎がお城風でとてもインパクトがあります。これには歴史的な由来が駅内に貼ってあります。

「烏帽子岳、御釜門山の西麓、阿蘇下田駅の北方に陣内と呼ばれるところあり、この陣内が当地の大豪士、下田氏の歴代居城の跡である。下田氏は、戦国期に起こり、阿蘇大宮司家の重臣となるが、その中でも下田右衛門能績は知将として名高かった。

しかし、能績ののち数代にして、天正年間(1573〜81)戦国時代の常として薩摩の島津勢は、大挙して南外輪山を越え攻め入ってきた。既に高森城を攻略した島津軍は、余勢をかって下田城を攻め、時の城主24代豊後守惟彝は、五日間の激しい合戦で討死を遂げた。

下田城主の末裔とされる園田家の古文書に夜と、城を守るは、城主惟惟彝以下、後藤勘兵衛、岡太郎左衛門、荒牧清九郎などの重臣と兵七百余人、遂に城は落ち、城主は討死、幸い内室と嫡子四郎丸は久木野の岩窟に隠れ、翌天正十三年四月戦乱が静まって復帰し、四郎丸は成人して四郎丸左衛門鑑信と名乗り、以下連綿と続いている。

いま、本丸の台地の間を南阿蘇鉄道が走り、往年の下田城の形をとどめているものは何もないが、城址の東方に往時を偲び、また観光名所として再現されました。」

駅の中は、お城の中というより昭和レトロの装飾が沢山されています。個人的にちょっと微妙ですけど..お好きな方はぜひ。

駅横には「縁結びの石」というものがあり、この左側の石に空いている穴の中で男女二人が手をつなぐ事が出来れば、必ず結ばれるという。

下田城跡

お城は阿蘇下田城駅から西に数100m離れた場所にあります。「健磐龍命から数えて四十予代の後裔大宮司友寛という人があり、この友寛の三男惟政が阿蘇家から南郷の下田1700石を賜り、この地に住む。地名である下田の姓を名乗り城郭を築いて代々在城した。

下田城主は下田権大宮司職を兼ねて下野の狩り奉公職として毎年の狩りを統括した。下田氏は戦国時代の武将として常に阿蘇大宮司家の味方となり、各地の戦場に出陣し戦功を立てたが、天正十二年薩州島津の侵による昼夜の猛攻について落城する。近くには城跡を語る地名などとして次のようなものがある。陣内・城戸・岡屋敷・塔頭・古井戸・空濠など

阿蘇吉田城

阿蘇下田城駅から高森方面に進んだ場所にある「阿蘇吉田城址」。田園地帯に、丸くこんもりとした森のように見えるので分かりやすいです。現在は民家の庭となっています。

「吉田城は、阿蘇大宮司家臣吉田主水頭が在城したという。一説には、戦国時代には既に城があったとも伝えられ、天正十四年(1586)正月二十三日薩摩勢の猛攻を受け落城したと伝えられている。」とあります。

名水百選白川水源

南阿蘇の代表的な観光スポットである白川水源は、カルデラ内の火山群の南の裾野にある代表的な湧泉で、毎分60トンもの豊富な湧水を誇り環境省の名水百選にも選ばれています。周辺に駐車場が沢山設けてありますので停めやすいです。

「料金所まで50mです。白川水源の環境を守る為にお一人様100円の協力金をお願いいたします。中学生までは無料です。【お願い】公園内には、犬やペット類の持ち込みはご遠慮下さい。」門をくぐって進むと

料金所で100払い中へ進みます。水源池というと水汲み場以外に何も無いように想像しますが、水汲み用容器のお店や茶店、神社もあり見学以外に水遊びや休憩できるようになっています。

料金所では、奥に御鎮座されている白川吉見神社の御朱印(書き置き)も取り扱っています。

御神紋は丸に違い鷹の羽、阿蘇神社と同じです。

阿蘇二十四城 高森城

ひと休みした後は、高森峠の中腹にあったとされる「高森城」を目指します。国道265号線沿いにあるので、そのまま国道を使って上へ行くのもいいですが、名所やフォトスポットがある県道28号線を使いながら高森城跡へ向かいました。旅館城山の交差点を右に折れ、

くねくねと峠道を上へ伸びる坂道は、「高森千本桜」と言われる桜の名所で、春には沢山の観光客で賑わうお花見スポットです。駐車場も少しずつですが整備されています。

途中には、南郷谷の風景が眺められるフォトスポット用スペースが設けられています。これだけ高いので平地より少し涼しいです。

上り坂の終点付近には「史跡 御成山」の文字。「高森町から旧蘇陽町に通じる外輪山882mの山を御成山といい、ここを通ずる旧道を御成坂という。太古、景行天皇が熊襲征伐の時この頂上に御成りになったので、この名があると伝えている。

大正の末期までこの峠の七合目に七合の小屋があり、附近には山伏塚、獅子口などがある。阿蘇五岳、南郷谷を一望にする景勝地である。」ここから国道265号線と合流しますが、一気に交通量が増し流れが速くなります。さらに見通しが悪い急カーブが続きますので注意が必要です。

高森城趾の石碑はカーブが連続するトンネルの手前に現れます「高森城趾は、天正年間高森伊予守惟直の居城。阿蘇二十四城の随一で別名:囲いの城という。三方を山に囲まれ門口30m、奥行き65mの平坦の地があったが、昭和四十九年七月南阿蘇集中豪雨で流失、中世の古城(山城)である。

薩州島津勢の肥後侵攻に諸将皆、その軍門に降ったが三度の戦いに屈せず、天正十四年(1586)正月二十三日落城、惟直自刃した。城跡の後方山地に「千人がくれの岩屋」と呼ばれる窪地がある。」と解説されています。

阿蘇南郷谷の武将高森伊予守惟直

高森城の築城年は不明ですが、鎌倉時代後期からの城と思われます。天正十三年(1585)北上してくる島津軍に次々城を落とされ、頼りにしていた甲斐氏も失った阿蘇氏は降伏し阿蘇大宮司は追放、すぐさま阿蘇南郷谷にも大軍が攻めて来ました。

そこで奮闘したのが阿蘇氏の庶流である高森城城主の「高森伊予守惟直公」。この堅固なる居城高森城に籠り、島津勢の攻撃を三度も耐え抜きました。。島津軍に降った阿蘇家奉行衆が「降伏し島津勢に帰順するように」と使者を送りましたが、惟直公は、その使者を斬り捨て徹底抗戦の構え。

業を煮やした島津方の新納忠元は、正月二十三日総攻撃を開始。家老の武田大和守元実、家臣の三森兵庫守能因らも奮戦しましたが、消耗激しく高森城はついに落城しました。

天然記念物高森殿の杉

惟直公は逃れ、再起をはかるべく大友氏の豊後方面へ向かいますが、その途中追手に囲まれてしまいました。

もはやこれまでと家臣の三森兵庫守能因と虎御前原のこの地で自刃。元々ここに墓がありましたが、寛永六年に含蔵寺に移されました。里人たちは勇敢な殿様を偲び、守り神「高森殿の杉」と呼び大切に保存されています。

墓所 曹洞宗 含蔵寺

高森惟直公と家臣の墓所がある「起雲山含蔵禅寺」。鎌倉時代創建されたお寺で代々高森城主の香花院でしたが、天正の兵乱で堂宇焼失し貞亨三年(1686)中興第一世納川明海禅師禅刹に改め復興されました。こちらが高森一族の菩提寺となります。

高森伊予守惟直公のお墓。周りには家臣の方のお墓もあります。

境内の真ん中に「含蔵寺の木犀(もくせい)。この樹は、戦国時代島津氏との戦いで孤塁を守った高森惟直がこよなく愛した樹と伝えられている。惟直をはじめ勇敢に戦った武者の墓は、この樹とともに今もこの寺にある。」

勇敢な家老だった武田大和守元実のお墓。

殿と一緒に自刃された近侍三森兵庫守能因のお墓です。

少し手前に道の草むらに惟直公の愛馬だった龍風のお墓があります。とても大切にされておられたようです。

久木野城跡

南阿蘇村に「四季の森」という温浴施設があり、その裏山にかつて中世阿蘇氏の居城であった久木野城がありました。現在は鬱蒼として危険で裏山へは入れませんが、

麓の拓けた集落に御鎮座されている古霊神社には、中世の頃の名残りが遺されています。阿蘇氏、菊池氏、相良氏という肥後の三豪族が割拠した鎌倉時代、南郷阿蘇氏の居城となった久木野城からの眺めを味わいました。

「阿蘇殿久木野城に在りし時の阿蘇南郷大宮司を形容した御神体を祀っています。南郷大宮司惟安から惟直までの七代か。境内に行基菩薩の作と伝えられる薬師寺如来を祀る。」とあります。

阿蘇惟直公は、南北朝時代に南朝方として多々良浜の戦いに参戦しましたが敗死。その後、北朝方の足利勢が南阿蘇の本拠を急襲してきたため、この南郷谷から矢部方面(現在の山都町)へ本拠を移しました。

周辺の立ち寄りスポット

●南阿蘇鉄道 高森駅

高森駅は災害後、以前のレトロな建物から新しく改装され近代的な外観になりました。(個人的には以前の方がよかったのですが)

こちらの名物は、南阿蘇の草原を走るレトロなトロッコ列車。

暖かい季節(4月から10月)だけ運行しています。

某アニメ仕様のラッピング列車もあります。なぜコーラなのか、あのキャラの好物なので。

駅舎の中には著名漫画家のサイン展示の他に、お土産品や鉄印も販売されています。

時刻表と運賃表です。〝ゆうすげ○号という名がトロッコ列車です。(高森駅・令和六年九月末時点)

●上色見熊野座神社(かみしきみくまのざじんじゃ)

南阿蘇(南郷谷)の山奥に御鎮座されている神社で、杉林の中にひっそり佇む長い石段と灯籠が織りなす荘厳感が人気のフォトスポットです。伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が御祭神です。

緩やかに見える石段の参道は結構長くキツイので、参拝者のために杖が置いてあります。「享保七年(1722)の建立で南郷の総鎮守として祭祀される。標高670mの月形山の山麓にあり、後方には鬼八法師蹴破ったと伝えられる穿戸岩(うげといわ)が自然のトンネルを作っている。

秋ともなれば紅葉に覆われた外輪の岩ぶすまが後方に迫り、遥か前方には根子岳の全山が端正な山谷を見せている。」と説明文があります。

御朱印は「全体ver」、蹴破った「穿戸磐赤い足ver」「穿戸岩朱印ver」の三種類があります。ただ、こちらは普段無人社で、どなたもおられずお守りとおみくじはありますが御朱印はここではいただけません。

なので高森駅の向かい側にある「高森観光推進機構」さんの所まで行き頂く必要があります。もちろん3種類とも取り揃えています。

アクセスは路線バスがあり、御社殿に色見環状線「神社からの出発時刻」が貼ってあります。所要時間は15分くらいなので、逆に高森駅前から「上色見熊野座神社入口前」に向かう場合は、大体15分前が高森駅前出発時間と考えるといいでしょう

地図では山奥にあり心配になりますが、意外にも道路は広く、神社の向かい側には大きな駐車場もありますので安心です。

●名水公園 明神池と鬼官兵衛資料館

白川水源の近くに「明神池」「明神そば」「鬼官兵衛記念館」という看板が目に入ります。気になって入ってみると、大きな駐車場があり休憩所のようになっています。こちらも南阿蘇にたくさんある湧水地のひとつで、毎分約2トンの清水が湧き出ています。

「絶え間なく湧き出る水は誕生水と呼ばれ飲むと安産に効果ありとされています。昔、当地区に吉田城があり、城主には子供がなく、この水源で身を清め境内にある誕生石に願をかけられたとこと、子宝に恵まれました。

しかし、産後の目立ちが思わしくなく乳が足りず、日に日に痩せ細る子供に困り果てた奥方は、境内にあるイチョウの木の乳房の用に下がっている気根を撫でられたその日から病気も回復し、乳の出もよく成り、それ以来現在も尚、女性の参拝する信仰が残っています。

また、日本最後の内戦明治十年西南の役で会津藩家老佐川官兵衛は、当地区長問屋の座敷(現存)にて南郷有志隊と薩軍に対する作戦会議を行い、この水源で身を清め、当群塚神社に必勝を祈願された史実が残されています。」

その佐川官兵衛さんは「鬼官兵衛」と呼ばれていたので、そういう表記になっています。その鬼官兵衛さんは、この南阿蘇で薩軍と交戦し討死されました。記念館とありますが、残念ながら現在は休館中で中には入れません

記念館は休館中ですが、駐車場はいつも埋まっています。なぜなら、蕎麦屋さんがあるからです。南阿蘇は飲食店が少ないのもあり、ランチタイムは満席で行列もできるほど混みます。もし空いていたら幸運です。

かけそば980円(一番安価なメニューです)。温かい蕎麦か冷たい蕎麦から選べます。

●高森湧水トンネル

昭和四十八年に行ったトンネル工事中に出水事故が起き計画は中止に。その後2キロ以上あったトンネルの150mまでを使い装飾を施し、湧水地観光地として生まれ変わりました。トンネル内はいつも涼しく一定に保たれています。

まだエアコンの普及率が低い時代、独特の蒸し暑さの熊本の夏を逃れるため避暑地阿蘇へよく出掛けていました。その中でも高森湧水トンネルは人気スポットで、特に11月半ばから始まるクリスマスの時期はデートコースとして誰もが行った事がある場所でした。入場料は大人300円です。

Visited 5 times, 5 visit(s) today