【熊本県】大軍を破った12歳の総大将/菊池市 台城跡

熊本県北部にある菊池市、菊池平野を貫く県道325号線から住宅地へ入った先の丘陵地帯にある「台(うてな)城址(水島城)」。このお城跡は鎌倉時代末期の南北朝時代に活躍した名門菊池氏の史跡になります。菊池一族と呼ばれ、その遺跡群は令和五年に国指定史跡に決定しました。

静かな田園地帯が広がる菊池平野を横切る国道325号線に、菊池市街と山鹿市を結ぶこの道路の途中に「台区水島」と呼ばれる場所があります。

小さな看板に導かれるままに。入り進むと山道に入り、しばらく登ると「台城址」へ着きます。

現在、こじんまりとしていますが、見晴らしの良い場所です。周りは田畑が広がっています。

「台」「うてな』と読み、「臺」とも書き〝四方を見渡す為の建物〟という意味なので、その役割を担って建てられたのでしょう。

「別名水島城とも呼ばれ、一時期は台地の下の村藩名にもなっていました。台台地の突端部にあり、北東は、八筈の山地に連なり木田・内田の両川が脚下を流れる天然の要害です。打越城と対峙して中間に馬渡、正光寺、増永の三城と連携して玉名・鹿本方面からの敵に備えました。十八外城の中で特に重要であったようで、城主は決まっておらず交替制だったようです。

十五代武光、十六代武政を相次いで失い、文中三年/応安七年(1374)弱冠十二歳で、頭領を継いだ十七代武朝(加賀丸)は、翌天授元年(1375)、九州探題今川了俊率いる軍勢をこの城で迎え討ち、数万の軍勢を二千騎で撃破しました。(水島の戦い)。写真:菊池神社

この戦いは激戦であったことで有名であり、その激戦のあまり、自軍の矢が尽きたあと、敵の放った矢を取って放ったということから、台地の下の内田川一体は「矢取り」と呼ばれています。」

周辺は川が多く流れていて水路のようになっています。当時は湿地帯が広がっていたと想像できます。足場がしっかりしたこの場所は格好の弓矢ポイントで有利です。眼下に広がる平野では古くからお米づくりが盛んで、江戸時代は高級米として大坂のお寿司屋さんで使用されていました。

菊池氏の歴史

肥後菊池氏の始まりは諸説ありますが、平安時代に太宰府官だった藤原政則の子が肥後に下向した後、菊池氏を興し土着した九州の代表的な豪族。卑弥呼の時代、邪馬台国に対抗した狗奴国衆の地という説もあります。後の鎌倉時代に下向した九州武士団の御三家「大友、島津、少弐」とは違う生粋の九州豪族と言えます。

肥後で450年間繁栄した菊池の由来となったと言われる「菊之池跡」です。こちらの深川村に広大なる池あったとされ、その周り一帯には菊花乱開していたので、則隆公は菊の池と名付け、干ばつの際も枯れることなく群中の田を潤したこの池を吉兆として〝菊池〟と称したといいます。

現在は、大きな池も涸れしまい周囲の環境も変わり昔をしのぶ事はできませんが、現在も地名と共に遺されています。「きくち」の由来には、いろんな説があリ、同じく菊池市内にある鞠智城も久々知(くくち)と読んだことが和名抄に書かれています。

初代則隆公から十五代武光公まで居城にしていた「菊之池城(深川館)跡」。現在は畑の中にありますが、鎌倉時代は数多くの館が建っていたようです。南北朝時代の動乱期、防衛の為の城廓化が始まり、戦略上不利なこの地から少し離れた守山城(隈府城:現菊池神社)を築城し本拠として移りました。

菊池市ふるさと創生市民広場裏の丘陵に菊池一族を祀る「菊池神社」。南北朝時代、後醍醐天皇の宮方南朝側ゆかりの建武十五社でもあります。御祭神は第十二代当主菊池武時公(博多合戦で討死:袖ヶ浦の別れ)、第十三代武重公(竹下の戦い:菊池千本槍)、第十五代武光公(懐良親王と活躍:筑後川の合戦)。

社殿の横の摂社は城山神社。第十代菊池武房(元寇での日本軍リーダー)、第二十一代重朝公(菊池文教の祖)が祀られています。写真:蒙古襲来絵詞(左上菊池武房公)、馬上の竹崎季長公)

菊池神社境内にある「第13代菊池武時公像」です。大友氏・少弐氏と共に鎮西探題へ攻め上りましたが、直前に両氏に寝返られ討死した「博多合戦」「袖ヶ浦の別れ」は有名です。

第十五代菊池武光公は、後醍醐天皇の皇子懐良親王を隈府に迎え「征西将軍府」の本拠をとし、九州に落ち延びた足利尊氏の北朝勢との間で闘った日本三大合戦の一つ「筑後川合戦」で勝利するなど、九州を席巻しました。写真:太宰府へ向かう菊池武光公像(菊池市ふるさと創生市民広場)

しかし、次第に北朝側足利尊氏が派遣した今川了俊などの攻勢で次第に劣勢となり、約60年に及ぶ南北朝時代は南北合一で終結。室町時代に入ると武朝公は肥後守護大名として存続。二十一代重朝公は学問の保護者として励み、菊池(隈府)は、京都五山の僧が「文あり武あり、民礼節を知る」と褒め称えるほど文教の一中心地となりました。

第二十二代菊池能運公が亡くなると後継を巡って家臣団が対立し、次第に衰退していくことに。大永三年(1523)大友・阿蘇の連合軍に敗れ島原へ逃れた第二十四代菊池武包(たけかね)公が同地で亡くなったことで肥後守護として栄華を誇った菊池本家血統の名跡は滅びてしまいました。その後の肥後は龍造寺氏から大友氏、その後は島津氏の支配下に。

「あの名門菊池の名跡は潰えたか・・・」そう思われていましたが、後に後難を恐れた菊池能運公が、妻子を弟に託し人吉球磨へ逃していた事が分かりました。名を米良氏(菊池氏)と称して代々相良氏に仕えていた子孫は、明治になると旧姓菊池を復させ華族に列することができました。熊本県との県境、宮崎県児湯郡西米良村に墓所。写真:菊池能運公(菊池神社)

菊池十八外城

「十八外城」とは菊池本城(守山城・隈府城)を囲んだ十八箇所の支城の事です。写真:菊池神社境内

戸崎城

北宮阿蘇神社から少し南側にある小山にある戸崎城。「別名茶臼山城とも呼ばれ、代々鹿島氏の居城とされています。城を西に下った集落には「居屋敷」と呼ばれる字が残っており、鹿島氏は普段は集落辺りに居住し、有事の際に城に登ったのでしょう。城の上り口に「土阿弥陀」と呼ばれる坐像があり、これは十五代武光に使え活躍した鹿島刑部大輔の墓といわれています。」

増永城

「増永城は菊池初代典隆の子、西郷政隆が開いた平城で、西郷氏代々の居城として、正面に迫間川を擁し、台城、正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城です。遺構は少なく、現在は井戸、土塁の跡(竹林)、また「西郷の墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけです。この増永城跡の隣には「西郷南州公園」(西郷隆盛先生発祥の地)があります。

この地から西に100Mくらいのところに地蔵院があり、これは西郷家の菩提寺であったと伝えられています。また城域東の羽根木八幡は則隆、砂田若宮神社は政隆の勧請ともいわれ、外域の中でも古いと考えられます。

城主の名が村の名として残り、その末裔は鹿児島県に赴き明治維新の英雄西郷南州(隆盛)を生み出しました。それを物語る「西郷南州先生祖先発祥之地碑」が境内にそびえ立ち、碑文は徳富蘇峰の筆によります。

馬渡城跡

七城温泉ドーム横の道から住宅地に入ると奥に盛り上がった土が見えてきます。ただ私有地なので、迷惑にならないように外から眺めるか、所有者にお願いして見学した方が良さそうです。

正光寺城跡

別名加恵城。八代能隆の子隆時が加恵氏を名乗って居城しました。加恵三寺と呼ばれる正光寺、賢石寺、正元寺があったとされ、その一つが城名の由来となっています。また加恵三社(諏訪宮、櫛田宮、須賀神社)も菊池氏二代経隆の弟(西郷)政隆の増永城への配置を含め、食料(米)の確保や水運の面で、一族がこの地域を重要視していたことをうかがえます。

打越城址

菊池市七城町にある温泉ドームから少し西へ行った場所にある「打越(うちこし)城址」。少し盛り上がった丘陵の竹藪の中に石碑が建っています。「代々菊池氏氏族の城で、果たしばら与え三隆益一族が防備に当たりました。

この城は、天授五年(1379)、三万の軍勢が投入された今川氏の再度の攻撃(板井原の戦い)で陥落しました。それ以来、打越城は現在の地に移り、菊池氏滅亡後は微温湯(ぬるま)氏が城主となりました。その末裔は現在も打越区に健在です。」ちなみに、微温湯は阿蘇郡小国町に地名があります。

周辺の立ち寄りスポット

西郷南州(隆盛祖先の地)公園

「明治維新で活躍し、西南の役薩軍の将西郷隆盛の祖先発祥の地。一帯は菊池十八外城の一つ増永城跡、初代の城主「西郷太郎政隆」は、菊池氏初代則隆の子。その後裔26代西郷九兵衛昌隆司の時、薩摩に移り住んだという記録がある。」

道の駅 七城メロンドーム

菊池地方は「道の駅」が沢山あります。名産品であるメロンのような建物です。メロンが推しで、メロンパンなどが販売されています。

道の駅 水辺プラザかもと

メロンドームから1.5キロ菊池寄りにある道の駅。こちらは温泉(9:00〜22:00まで)・ランチバイキング(11:00〜15:00)もあるのが特徴です。夏場は横の川をカヌーで遊べるようです。

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