熊本県の中央部にある上益城郡御船町。御船川と山沿いにあるのどかな地には、源平合戦の「あの名シーン」で登場した女官の故郷があります。「あの名シーン」とは?
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治承四年(1180)後白河法皇の皇子・以仁王による平家追討の令旨から始まった源平合戦。壇之浦の戦いで終結する前の元歴二年(1185)二月、讃岐の国屋島(香川県高松市)にて起きた「屋島合戦」。平家側の大将は平知盛公、源氏側の大将は源義経公。両軍が入り乱れ激突したこの合戦の最中に一つの出来事がありました。
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合戦の最中、平家側より一艘の小舟が進んできました。そこには「玉虫御前」という一人の女官が乗っていて、舟の前部に掲げた扇を向けて「源氏の武士たちよ!この的を射ってみよ」という挑発のような仕草。
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それを受け源義経公は、それならばと家臣の「那須与一」に、あの扇を射落とすよう命じます。与一は愛馬を海の中へ進み出させ扇の的を狙います。そのころ海上では強い北風が吹き波も高く、扇も大きく揺れていました。両軍の兵たちが固唾を飲んで見守る中、与一は神仏に祈願し馬上から矢を放ちました。
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その矢は七段(77m)先の扇の的に見事に命中し、扇は宙を舞いました。まわりの両軍からは大きな歓声があがり、「那須与一」は、多くの喝采と名誉を得ました。その後「平家物語」や「源平盛衰記」などの物語によって「扇の的伝説」は後世まで広く伝えられました。
その後の玉虫御前
では、あの舟に乗っていた女官玉虫御前は、その後どうなったのでしょう。
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熊本市から御船町の県道445号線を山都町(やまとちょう)へ。のどかな田園風景が続き、右側には御船川が流れています。
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その途中に「玉虫」という地名とバス停があります。地名として残っています。
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その玉虫バス停の50mほど手前の左カーブから右へ(軽トラックが見える場所)細い道路から入ります。
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車一台分ぐらいの道路を進み、川に架かる玉虫橋を渡った先に右カーブの所から左へ入る小道があります。カーブミラーと石碑が目印。そこから100mほど進んだ先に小さな公民館が見えてきます。周りは畑と草原です。
玉虫寺跡(玉虫公民館)
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現在では玉虫公民館として利用されていますが、昔は玉虫寺があったようです。敷地の入り口には鎖が張ってあり乗り入れられません。横には解説板があり、その後の玉虫御前の事が記載されています。
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「壇ノ浦の戦いに敗れた平家の多くは海底のもくずと消えたが、玉虫前は幸いにも逃れ父である横野村の豪族横野大椽(よこのだいじょう)のもとに身を寄せ尼となり、玉虫に一寺を建てて観音像を作り平家一門の菩提をとむらったと伝えられる。これを玉虫寺と呼んでいる。」
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「寺院には膝よりうえ1.8mの一本造りの仏像二体の焼け朽ちたものを蔵し、境内には五輪塔や古い墓碑、石の諸神祠が並んでいてむかしの信仰繁栄の様をしのばせる。
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中でも、ここの六地蔵塔は珍しい。享保八年(1723)三月の建立で、竿石に象形化した像を刻画した六角(一辺20cm)の塔のその上に傘石を乗せている。六地蔵塔は仏菩薩坐像を彫っているのが普通である。」
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玉虫御前に関しては、他にもその後の伝説があります。八代市泉村にある平家の里です。そちらは②でお伝えします。
那須与一宗隆
扇の的を射落とした「那須与一(なすのよいち)」は、下野国(栃木県)那須郡で父資隆の十一男として生まれました。もともと「那須氏」は、藤原鎌足を祖とする名門で藤原道長のひ孫である貞信が、下野国(栃木県)那須郡を拝領し「須藤」と名乗りました。その後代々続き、与一の父である資隆の頃に「那須」と改名しました。
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治承二年(1180)の治承・寿永の乱では、九人の兄が平家に味方する中、十男の兄と共に二人で源義経側に加わり各地を転戦したのち屋島合戦での扇のエピソードとなりました。肖像画で着用されているものにも那須扇の家紋があります。その後の与一に関する資料はほとんどありませんが、「那須家」に伝わる系図では、扇を射落とした功績により五つの庄(荘園)を拝領され那須氏の二代目当主となりました。
●信濃国角豆庄(長野県松本市と塩尻市)●丹波国五賀庄(京都府南丹市)●若狭国東宮河原庄(福井県小浜市)●武蔵国太田庄(埼玉県行田市と羽生市)●備中国荏原庄(岡山県井原市)
それを機に「宗隆」から父と同じ「太郎資隆」に改めたと言います。没されたのは京都の伏見付近で荼毘に付され即成院に葬られ、遺骨は分骨されて故郷の下野国(栃木県)にある恩田御霊神社に葬られました。「与一には子がいなかったため、源頼朝公の命により与一の兄である五郎之隆が跡を継ぎ、資之と名乗りました。」
鎌倉時代〜室町時代
跡を継いだ資之でしたが、子がいなかったために宇都宮氏から養子を迎え、頼資へと代々那須家は続いていきました。源頼朝公からの信頼も篤く、那須郡の街道警備を任されるほど那須郡での一大勢力となりました。
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鎌倉時代末期の南北朝時代、那須氏は北朝の足利尊氏側に付きますが、尊氏が南朝勢に敗れ九州へ敗走すると状況は一変、東国の御家人たちは南朝側に味方し、北朝側の当主資忠との間で戦いとなり資忠は高館城に篭りました。子の資藤も京都東寺合戦において足利勢として奮闘しますが、兄弟三人一族郎党三十六騎全員が討ち死にして果てました。
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室町時代では跡を継いだ資世が、子の資氏と共に室町幕府内で一定の地位を築き、応永六年(1399)には足利満兼より屋形号(守護大名)を賜り関東八屋形に数えられるまでになりました。
戦国時代〜江戸時代
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戦後時代の那須氏は、家中で分裂と統合を繰り返しながら武田氏・北条氏・上杉氏と手を結び生き残りを図ります。戦国末期には北条氏に属して戦っていましたが、西国より豊臣秀吉公の「北条征伐」の軍が迫ってきました。(写真:小田原城)
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諸国の大名や国衆へ参陣を求める書状が秀吉公より当主那須資晴のもとへ届きましたが、資晴は日和見し動かなかったため、征伐後に所領を没収改易のうえ佐原土へ蟄居を命ぜられました。これで那須氏の命運が尽きたかに思われましたが、参陣した大田原氏・大関氏(那須氏の分家)と那須衆のとりなしで、資晴の子の資景へわずかな知行が与えられ命脈を保ちました。
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関ヶ原の合戦では徳川家康公へ人質を出し東軍側へ味方し、江戸城の守備を任されました。大阪の陣での活躍も認められ、資景の代には、一万四千石の大名として那須藩が誕生。何度も廃藩と立藩を繰り返すも最後は烏山藩へ移り、那須家は現代へと継承されました。何度もお家断絶のピンチを救ったのは、「あの那須与一の名族が絶えるのが惜しい」と言う嘆きの声でした。
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那須与一の墓所
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那須与一の墓所は、京都市東山区の即成院にあります。(二つありますが、JR東福寺駅の近くにある方です)即成院の由緒は、
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「山号を光明山とする真言宗泉涌寺派の寺である。正暦三年(992)、恵心僧都(源信)により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とする。寛治年間(1087〜1094)に橘俊綱(藤原頼道の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍に移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれている。
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宇治川を挟んで向かい側には父、藤原頼道の宇治殿改め平等院が建っており、父子相呼応する様な寺院建立の敬意である。文禄三年(1594)豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転し、更に明治時代に至って泉涌寺山内に再興され、即成院と呼ばれる様になった。
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本堂には、仏像群としての形式は極めて珍しい阿弥陀如来像並びに二十五菩薩像が安置され、境内には平安時代の武将であり、弓の名手であった那須与一の墓と伝えられる石造宝塔がある。
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寺伝によれば、与一は出陣する途中で病にかかったが当院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦いで戦功をたてたので仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられている。」
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境内には与一の手洗い所もあります。御本堂の中は有料ですが、無料でも墓所を見学でます。
その②へ進みます。