【熊本県】救国の武士:竹崎季長公が眠る町/宇城市

絵としても躍動感あふれる構図なので鮮明に覚えている方も多いかと思います。歴史の授業の最初の方で学んだこちらの絵。この馬に乗った人物、当時わからなかったのですが「竹崎 季長」(たけさき すえなが)という鎌倉時代の武士です。

今から約750年前、世界征服を企てたユーラシア大陸のモンゴル帝国の蒙古軍(元・高麗連合軍)が海を越え日本二度襲来してきた元寇と呼ばれる出来事「文永の役、弘安の役」サムライたちの奮闘と二度とも「神風」といわれる暴風雨で蒙古軍は壊滅し危機を脱しました。

竹崎季長公が描かせた二度の戦いと、その後の鎌倉時代の様子をおさめた前巻21m・後巻24m合わせて約35メートルの大作「蒙古襲来絵詞」、今年令和三年「国宝」に指定され話題になりました。そこでこの絵巻物の主人公である偉人:竹崎季長公の墓所へ向かいました。

場所は熊本県宇城市豊野町北海東。周りは小高い山と小川が流れる緑豊かな農村の中、国道32号線をひたすら走ると案内標識が見えてきました。

春には桜並木が美しそうです。くねくね曲がった道を進むと、ようやく見えてきました。

駐車場の先にある平原公園の中に墓所があります。公園とありますがとても小さく、横の案内板がありました。正直、思ったよりも何もなくて少し寂しい感じです。

簡単な地図があります。史料館などは無いようです。公園はゲートボール場になっていますが現在は使われてないようです。トイレはありました。まわりを囲むように桜の木があるようですね。

「お墓は長い間、所在がわからない程草木に埋もれていましたが、明治二十七年に発見されました。形は征夷大将軍源頼朝公の墓と同じ同型の五輪塔です。お墓の横には大正四年大正天皇即位の礼に際し追贈された従三位の石碑があります。」案内の説明文にはこうあります。

こちらが竹崎季長公のお墓です。数年前には地震がありましたが、お墓は無事のようです。多くの人の助言や援助を受け季長公は、恩賞をもらいに鎌倉へ向かいました。

鶴岡八幡宮/神奈川県鎌倉市

鎌倉にて季長公が参拝された鶴岡八幡宮。鎌倉武士の守護神。狛犬さんもマスクを着用され感染予防。

この神社の創建は康平六年(1063)。鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義公が、京都の石清水八幡宮より勧請され源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。日本三大八幡宮は、宇佐八幡宮(大分)、筥崎宮(福岡)、石清水八幡宮(京都)ですが、こちらの鶴岡八幡宮を入れる方もいます。

当時の征夷大将軍は惟康親王(当時三歳)。執権の北条時宗公は、未曾有の事態にさぞ驚かれた事でしょう。先に侵略された対馬では島民のほとんどが虐殺または奴隷にされました。時は一刻を争います。博多湾へ招集するよう司令を出しましたが、果たして西国の武士たちは集まってくれるかもどうかわかりません・・・・。しかし見事に役目以上の働きをしてくれました。

その辺の話はまた今度として、場所はまた現代の豊野町海東郷に戻ります。

こちらには「寛元三年に肥後国竹崎で生まれ竹崎を屋号にしました。幼くして兵衛尉の官位につき左兵衛藤原季長と称し藤原を本姓とする名門の出といわれています。(省略)蒙古合戦の戦功者は全国で百二十名にもおよびましたが、季長はただ一人幕府の下文をもって恩賞を給わり、海東郷地頭に任命されました。(省略)その後海東郷は急速な繁栄をしました。」いやそればかりか絵巻を保存・模写復元して残してくれた先人たちのおかげで戦いの様子や惨状、鎌倉時代の暮らしの様子が750年後の後世にも伝わりました。さぞ当時も多くの人々に尊ばれた方だと思います。救国への感謝とコロナウイルスとの戦いに打ち勝てるようお参りした後、そばにある碑に向かいました。

元寇記念碑(大正六年建立)。さきほどの案内説明文には、「碑文字は、連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥の書で季長の言葉「弓箭のみちすゝむをもてしやうとす」が刻まれており、その文字上部に、季長の旗指紋「三つ目結い吉」がつけられ、台座には清浦奎吾子爵(熊本県出身の首相)の碑文があります。」とありました。九州北部には、他にも沢山の史跡がありますので訪れたいと思います。

甲佐神社(蒙古襲来絵詞が奉納された神社)

上益城郡甲佐町に御鎮座されている「甲佐神社」。こちらには竹崎季長公にゆかりの神社です。

「鎌倉時代、甲佐神社は現甲佐町・小川町・城南町松橋町に400町歩の社領を有していました。松橋町の竹崎に住んでいた幕府の御家人竹崎季長は、文永の役(1274)で活躍しましたが、恩賞から洩れてしまいました。

そこへ甲佐大明神のお告げがあり、鎌倉へ行き直訴したところ海東の地頭職を賜りました。その報恩感謝のために甲佐神社に奉納したのが「蒙古襲来絵詞」です。その後、この絵詞は名和氏・大矢野氏などを経て天皇の御物となり、現在は宮内庁の所蔵となっています。

絵詞は縦横40cm、長さは前・後巻を合わせると約40mにも及びます。その中から重要な場面を10枚選んで拡大複写したのがこの大絵馬です。国宝には損傷や加筆などがあり、今回の制作に当たっては甲佐神社に奉納した時の姿に近づけました。」

こちらは、境内にある「願成桜」。甲佐大明神のお告げがあった桜の枝に因んで植栽された若桜です。ちなみに御朱印はありませんでした。

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