山形県鶴岡市の中心部からやや離れた地に小さなお城の跡があります。その名は「丸岡城跡」。福井県にも同じ名のお城がありますが、こちらは出羽国にかつてあったお城です。

近くにバス停が無いので、交通機関を使って向かうには困りましたので車で向かいました。入り口に「金峯山登山口」「丸岡城址・清正閣」という道案内があります。

現在、ここは丸岡城跡史跡公園として整備されており、隣にある金峯山天澤寺にも数多くの史跡があります。小さなお城跡ですので、大きなお城とは違い長時間城内を歩きまわるほどはありません。

出羽丸岡城跡

「庄内地方は、鎌倉時代より四百年の間、武藤氏の支配下にあり、戦国期以降上杉領、最上領となりました。元和八年(1622)には、酒井氏が庄内藩主として庄内藩主として入部しました。丸岡は庄内と内陸を結ぶ六十里超街道の要所に位置していたため、代々領主により大宝寺城(鶴岡城)の支城として楯館(丸岡城)がおかれていました。

寛永九年(1632)肥後五十四万石の大名加藤忠廣公は、幕府より一万石をもって改易され庄内藩に預けられました。丸岡城跡に居館を構え二十二年間を過ごし、運命に翻弄された波乱の生涯を終えました。昭和三十八年、丸岡城跡及び天澤寺境内の史跡は、「丸岡城跡・加藤清正墓碑」として山形県指定史跡に認定されています。
肥後熊本藩主 加藤忠広公

慶長十六年(1611)肥後藩主加藤清正公が病で亡くなり、まだ11歳と幼少の虎藤丸(加藤忠広公)が継ぐことになりましたが、徳川幕府は「支城の破却、知行高と役務一覧、起請文の提出、江戸への人質、重臣の配置換え、百姓困窮の是正」などを命じました。外様大名の反抗を警戒していたことが伺えます。写真:熊本城(熊本市)・加藤清正公肖像画

その役目は近江出身で長年清正公に仕え阿蘇内牧城主だった加藤右馬充可重(うまのじょうかなしげ)の次男「加藤正方」が受け持つ事に。同じ苗字ですが血縁関係は無く、元は片岡という名で清正公と肥後入国後に加藤姓となりました。八代の知行地と西軍小西行長が築城した麦島城が与えれ〝城持ち家老〟となりました。このころから正方は「加藤右馬允」と名乗ります。

元和元年(1615)徳川幕府は同年閏六月、西国の国持ち大名を対象に居城以外の城郭の破却「一国一城令」を指示。麦島城は特例で破却を免れましたが、肥後領内では南関、内牧、佐敷城が破却され、家臣たちに動揺が広がりました。写真:麦島城跡(八代市)
牛方・馬方騒動

元和四年(1618)縁戚関係のあった清正家臣団への排除に不満を募らせていた加藤美作らが、加藤右馬允たちと対立、「牛方(馬に対抗して)・馬方(右馬允)騒動」と呼ばれる家中騒動が起こりました。このような対立は、豊臣恩顧の他藩でも見受けられました。写真:熊本城(熊本市)

事態を収拾すべく加藤右馬允ら(馬方)が幕府へ訴え、江戸に呼び出された双方に裁定が下りました。結果、馬方の訴えが認められ、牛方が一掃される事となり家中騒動は収まりました。しかし、この出来事は後にまで尾を引く事になります。写真:加藤忠広公が改築した江戸城和田倉門跡(東京都)

元和五年(1619)麦島城が大地震で倒壊し、城主の加藤右馬允は新城(八代城)の築城を幕府に許可を得て築城。徳川家から篤い信頼を支えに八代城主として復興に取り掛かりましたが…。写真:八代城跡(八代市)
加藤家改易

寛永九年(1632)またしても騒動が起こりました。江戸にて加藤忠広公の嫡子光正による「謀書事件」が発生。老中土井利勝に将軍家光公への謀反を促す内容だったことから、肥後藩主加藤忠広公と筆頭家老右馬允ともに江戸に召喚され尋問を受けることに。

忠広公の関与は否定されましたが、度重なる騒動と藩主の忠広公の奇行のため「改易」という重い処分が幕府から下されました。領地は没収され、大名という身分も失くしてしまう結果に。忠広公三十一の時です。写真:江戸城跡(東京都)

その後、譜代大名である酒井忠勝公の申し出により、忠広公は一万石で出羽庄内藩預かりの身となりました。新たな熊本藩藩主には、関ヶ原では東軍に属し功を挙げた豊前小倉藩主細川家が入部し、小倉藩には小笠原氏が入部しました。写真:細川藤孝公像
配流先庄内藩へ

当初配流先は酒井忠勝公の弟直次の旧領で、子がなく天領となっていた村山郡左沢に定めましたが、遠隔地で警備上の問題があるとして、丸岡に変更し藩内から一万石の領地を割いて忠広領として丸岡城跡に居館を用意し温情ある待遇で迎えました。同行した母の正應院、家士、郎等、女中など100名あまりでした。写真:古井戸と館の梅(丸岡城内)
大夫石・巫子石

こちらは丸岡城跡にある石碑には、「忠廣が両親を一時密葬した聖地太夫石は清正の骨壷、巫子石の地に生母正応院が土葬された。」とあります。

慶安四年(1651)母堂正應院が没、承応二年(1653)この丸岡館にて加藤忠広公も病没なされました。享年五十三。鶴岡市三光町の日蓮宗本住寺に埋葬されました。
金峯山 天澤寺

丸岡城跡の隣にある「金峯山天澤寺」。御朱印もいただけます。

加藤忠廣公の家士の墓

「加藤忠広公に先立って逝かれ、天澤寺に埋葬されている加藤家ゆかりの人々の墓地を三百有余年を経た昭和五十六年十月に移転整備し手厚く弔った。記録にある家士名は、近藤七郎兵衛、鎌田兵四郎、相田内匠、福武孫左衛門、永原七権平、下川兵太夫、渡会勘助、梶原三左衛門、英梅庵、この他に記録のない男女三十余人の墓もここにまとめたものである。」
清正閣

「加藤忠廣公と正応院様は、清正公のご遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に休め、丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。この清正閣も五輪塔、神子石・大夫石とならぶ重要な史跡である。初めは土饅頭の上に石碑が載っていたのみであったが、天保年間に祠を建てた。中の鉾型の碑は、熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。

昭和二十四年、清正公遺骨探索の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、地下2mの地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。尚、そばの小さな五輪塔は、密かに野に下した忠広公の子供のものといわれている。」

正保三年(1646)の丸岡大火で焦土と化した城館に立った忠広公が、加藤家の縁者でもあった天澤寺住職とも諮り、熊本から捧持した清正公の御尊骨を太夫石から天澤寺世代墓地中央に移し、その上に五輪塔を建立し、永代供養の方途を講じたものと推断されました。

清正閣は、万一の幕府探索に備えて鎧を埋め、清正公の菩提を弔う公の墓所として築かれたものと判明しました。

背景には偶然に九州肥後熊本と同じ名の金峯山(金峰山)があり、その眺めも似ています。父加藤清正公と母正應院、子の忠広公、家臣たちの魂もこの景色を眺めながら肥後を懐かしんでいるのかもしれません。
上ノ山城主里見越後守主従の墓

「上ノ山城主里見民部の子権兵衛が、山形城主最上義光の嫡男義康の小姓であったとき、義光は下山添一里塚の地で子義康を暗殺し、権兵衛にも切腹を命じた。権兵衛の祖

父里見越後守は、義光の処置に憤り民部と権兵衛それに家臣を連れて上ノ山城を出奔した。義光に追われ浪々の末、尾浦(大山)城主の下治右衛門に預けられ、その後、丸岡に移された。慶長十九年一月、最上義光の遺言によって里見越後守・民部父子主従23名は、この地で切腹させられ果てたのである。」
日向家住宅(丸岡城跡史跡公園ガイダンス施設)

丸岡城跡史跡公園には、鶴岡市指定文化財である日向家住宅があり、古民家の中では資料展示がされています。入館無料で開館時間は10:00〜16:00まで。

こういった丸岡城や加藤清正公墓碑に関する資料展示がいろいろあります。
JR東日本鶴岡駅

最寄り駅となる鶴岡駅です。残念ながら丸岡城跡は中心街から離れた地区にあり、近くにバス停はありませんでした。