テレビの時代劇で人気を博した「水戸黄門こと徳川光圀公」。全国を行脚する越後のちりめん問屋のご隠居の正体は〝天下の副将軍水戸光圀公なるぞ!〟だった。斬りかかる悪党たちをなぎ倒す助さん格さんの殺陣に惚れ惚れした覚えがあります。実在の光圀公はどんな人だったのでしょうか行脚してみましょう。
JR東日本 水戸駅

JRで水戸駅に到着。駅標マークは梅とお城のマーク。

ホームを降りて、いきなりカッコイイ列車を見つけました!あれ?ホームに乗ってる?

後ろに回ると入口が見えました。正体は駅のホームあるコンビニ、JR東日本のNewDaysでした。よく出来てます。

駅構内はお店が立ち並び賑やか。観光案内所では水戸城の御城印も販売されています。

ハートマーク(葵の御紋?)でしょうか。ネオンが印象的です。とても綺麗ですけど、古風な水戸のイメージが味わえるとこ無いかな?と思ってたら

ありました情緒ある屋外休憩所。「これよ〜!」と思わず目が輝きました。徳川家の三つ葉葵が入った大きな提灯は「日本三大提灯 水府提灯」。「水府」とは江戸時代の水戸の異称であり、水戸藩の産業振興として生まれ下級武士の内職から始まったといわれています。

良質な竹からできる竹ひごと水戸藩の奨励産業であった丈夫で水に強い「西ノ内和紙」を用いて作られた「水府提灯」は、岐阜・八女と並び日本三大提灯産地と称されるようになりました。

そして水戸と言えばやっぱりこの御三方。「水戸黄門様と助さん格さん」。両脇には梅の花を従えて「この印籠の紋所が目に入らぬか!」でお馴染みのシーン。

次に水戸と聞いて思い浮かぶ食べ物は「水戸納豆」。ニョキッと立ってる姿に笑いが込み上げます。ちゃんと由来も記載されています。

「源頼家が後三年の役(1083)のとき、奥州に向かう途中、水戸市渡里町の一盛長者の屋敷に泊まった折に馬の飼料である煮豆の残りから豆腐ができたという伝説があります。

水戸納豆が有名になったのは明治時代水戸駅のホームでお土産として販売されるようになってからです。戦後は全国で茨城の納豆が販売されるようになりました。」
JR偕楽園駅(臨時駅:毎年梅まつり期間中営業)

開業100周年を迎えた「偕楽園駅」。現在は【梅まつり期間中限定】の臨時駅。

ノボリに大正十四年二月二日開業公園下駅と書いてあります。スロープを降りるとすぐ横に偕楽園と常陸神社。

ノボリに大正十四年二月二日開業公園下駅と書いてあります。生憎の雨模様ですが、梅の花が出迎えてくれました。

「鉄道御朱印」も発売されているみたいですが、すでに完売でした。
別格官幣社 常磐(ときわ)神社

明治の初め、第二代藩主徳川光圀公・第九代藩主徳川斉昭公の徳をしたう多くの人達に依って偕楽園内に祠堂(しどう)が創立され、

明治六年(1873)明治天皇の勅旨をもって「常磐神社」の御社号を賜り、同年「県社」に列格。

この常磐神社はマップでお分かりのように境内から偕楽園の東門とも繋がっています。

御神紋はもちろん「この紋所」です。徳川家康公の九男義直公(尾張徳川家:名古屋城主)・十男頼宣公(紀州徳川家:和歌山城主)・十一男頼房公(水戸徳川家:水戸城主)という德川御三家は有名ですね。
【御祭神】

🔳高譲味道根命たかゆずるうましみちねのみこと 義公:徳川光圀公(水戸藩二代藩主)
黄門様と呼ばれるのは位の高い権中納言という官職を唐風(中国)では〝黄門〟と呼ばれる事に由来。数々の善政を行った名君として諡の義公(ぎこう)とも呼ばれています。写真:水戸光圀公像(神戸市湊川神社)

🔳押健男国之御楯命 おしたけおくにのみたてのみこと 烈公:徳川斉昭公(水戸藩九代藩主)
水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は、欧米の極東侵略に対して大砲を鋳造し幕府へ献上するなど国防の充実につとめました。写真:徳川斉昭公像/水戸市内

天保十二年(1841)藩校「弘道館」も開き、天保十三年(1842)日本三名園の一つ「偕楽園」も「民と偕に楽しむ」ために開設されました。

境内には「溶解炉」が展示されています。「水戸九代藩主徳川斉昭(烈公)が市内神崎に大砲製造所を設け、大田村の鋳物師を召して大砲を鋳造した際に使用したもの。」
最後の将軍徳川慶喜公は斉昭公の七男で、水戸の教えを守って「大政奉還」を成し遂げました。写真:二条城(京都)
御朱印

御朱印は二種類あります。梅まつり期間中は「観梅まいり」印入りです。
末社三木神社

【御祭神】三木之次命(みきゆきつぐのみこと)三木武佐命(みきむさのみこと)【御神徳】安産、子授け、子育て、家庭円満

「德川光圀公(水戸黄門)は、水戸藩家老三木邸にて誕生し、幼少の頃はこの三木夫妻に慈育されました。また、御神裔三木啓次郎氏は、松下電器創業者の松下幸之助氏が苦労されていた若い頃に援助されたというご縁で当社の鎮座の際は松下幸之助氏より多大な浄財が奉納されました。このようなことから、現在もテレビドラマ「水戸黄門」は松下電器の提供となっております。」
東湖神社とうこじんじゃ

【御祭神】藤田東湖命(ふじたとうこのみこと)【御神徳】合格祈願、学業成就、事業繁栄

「斉昭公に仕え、公を助けて藩政改革や兵器軍艦建造に活躍。海防策を進言する等、幕府からも注目されました。天保の改革、藩校弘道館の創建をはじめ斉昭公の片腕として活躍し、薩摩の西郷隆盛や越前の橋本景岳など天下の志士から景仰されました。」
義烈館

境内には「義烈館」があり、文字通り義公(光圀公)と烈公(斉昭公)に関する歴史史料が展示されています。(有料:大人300円)

「水戸のすごいものあります」ご興味ある方無い方も是非ご覧くださいませ。
茨城百景偕楽園

義烈館から偕楽園の東門へ進み入園料320円を払い中へ進みます。

東門の所にはお土産屋さんもあり、とりあえず雨宿りしていると….見覚えのある方々のお姿が!まさか!
感激!水戸黄門様御一行が降臨!

天下の副将軍水戸光圀公と助さん・格さん・うっかり八兵衛さんたち(ボランティアの方々)と記念撮影していただけました。(無料でスタッフの方が撮っていただけます)遠くから来た甲斐がありました。

御一行に因んだお土産もしっかり買い込めます。

雨なのが残念ですが、園内は梅まつりというだけあって梅の花が咲きほこっていました。

たくさんの梅の中にある「知足の蹲踞(つくばい)」という梅の木がありました。石庭で有名な京都の竜安寺にあって德川光圀公の寄進のものと伝えられます。

すぐ隣には「千波湖」という大きな湖があり眺望が楽しめます。晴れてたらきっと素晴らしいフォトスポットとして大賑わいだったでしょう。
水戸藩二代藩主 名君徳川光圀公
水戸光圀公は德川家康公の十一男で初代水戸藩主德川頼房公の第三子として寛政五年(1628)、家老三木之次の屋敷で誕生しました。(現在の水戸黄門神社)
光圀公が六歳の時、7つ上の兄頼重を越えて世継として決められ、兄頼重公は讃岐高松藩主となりました。決まった事とはいえ兄に申し訳ないと思った光圀公は、兄頼重公の子二人(綱方・綱條)を養子に迎え養育し、その後綱方は病死しますが、元禄三年(1690)、綱條(つなえだ)に家督を譲り、長年の念願を果たしました。
光圀公18歳の時に開眼

光圀公の青年時代は、とても奇抜で「やんちゃ」な青年でした。ビロード襟の小袖、腰に巻いた派手な帯に脇差しを突き差して街を歩く姿はまるで歌舞伎役者。周りから「傾奇者」と陰口を言われる程。そんな光圀公に転機が訪れたのは、十八歳になった頃に出逢った「史書(中国の歴史書)」を読み
と歴史書を編集する事を思い立ち、早速江戸の駒込の屋敷にて編纂を開始。

寛文十二年(1673)史館を小石川屋敷に移し「彰考館」と名付けました。安積覚兵衛(格さん)、佐々宗淳=介三郎(助さん)、栗山潜鋒、三宅観瀾、中村顧言、鵜飼練斎、安藤抱琴、酒泉竹軒など多くの学者が全国から招聘され、まず初代神武天皇から後小松天皇まで歴代天皇史から始めました。(三大特筆:神功皇后を皇位から外し列伝に入れる・三十九代に大友皇子を入れる・南朝を正統とする)
水戸学

そして、この「百王本紀」編纂が「水戸学」の始まりとなり、江戸時代後期には德川斉昭公が、天皇の元国全体で諸外国へ立ち向かう「尊王攘夷」論を示しました。藩を超えて国家的視野から様々な課題に対応する理念が、明治維新や近代日本の形成に大きな役割を果たした。
名君水戸藩主光圀公

寛文元年(1661)三十四歳で藩主となり水戸へ入った光圀公。まず飲み水不足で苦しんでいる下市の民の為に笠原不動滝を水源地として笠原から下市細谷まで約10kmに及ぶ笠原水道を完成させました。(昭和30年代まで使用)
数々の慈仁政策
寛文六年(1666)には武士や町人の経済的負担の大きかった冠婚葬祭の出費を減らすよう指導し、自身も質素倹約に努めました。

日本古来からの優れた和文を編集して後西天皇へ献上され【扶桑拾葉集】という勅題を賜ったほか、古来からの儀式礼典に関する文献を調べ514巻からなる【礼儀類典】も献上しました。これにより当時2〜300年中断されていた大嘗祭や立太子式が復興されました。

延宝二年(1674)四十七歳になられた光圀公は鎌倉旅行されました。時代劇などの全国行脚のイメージがありますが、実際の旅行は日光や江戸周辺が多かったようです。
晩年の御老公
元禄三年(1690)幕府より突然隠居を命ぜられると同時に水戸家の極官(最高位)である「権中納言」に任ぜられられると、前述通り綱條公に家督を譲り、翌年常陸太田の地に西山荘を建て残りの人生をそこで暮らしました。

元禄五年(1692)摂津(神戸)へ赴いた助さん(佐々宗淳=介三郎)より、楠木正成公のお墓が荒れ果ててる報告を受けた光圀公は大いに嘆き「嗚呼忠臣楠子之墓」と書いた碑柱を建てられました。

元禄六年(1693)には医者や良薬に恵まれず、病気を治療することが困難な農民のために民間でできる治療法の解説冊子「救民妙薬392種」を配布。元禄十年(1697)に古希を迎えた光圀公のお祝いに編纂を急いでいた【百王本紀】がついに完成。

それに安心されたのか以後、疲労を訴えるようになった光圀公。元禄十三年の夏になると
「ほととぎす たれもひとりはさびしきを われをいざなえ 死出の山路に」
と詠まれ周囲を悲しませました。そして師走を迎えた五日に容態が急変し、六日の早朝に息をひきとりました。七十三歳。諡は【義公】

江戸の町では次の落首(風刺)が見られました。
天が下 二つのたから尽きはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門
大日本史完成

史書「百王本紀」または「本朝史紀」は、三代藩主綱條公により「大日本史」と名付けられ、光圀公が薨去された後も編纂が進められました。全国各地を助さんが飛び廻り取材した事でも知られていますね。完成は明治三十九年(1906)全397巻226冊。写真:大日本史完成之地の碑(偕楽園内)
らーめん

光圀公と言えば最初にラーメンを食べた人としても知られていますね。その黄門様の誕生日に合わせて7月11日がラーメンの日になってます。水戸駅ではお土産として水戸藩らーめんというものが販売されています。もちろん購入しましたよ。

家で調理もいいけど、やっぱりご当地のお店で出来上がったものをいただきたいので、駅近のお店で醤油らーめんをいただきました。分厚いチャーシュとナルトがアクセントになってます。豚骨や味噌ベースを食するのが多かったので、醤油ベースは新鮮でした。肌寒かったので温まりました。
今度は水戸藩の成り立ちから動乱の江戸時代の末期の幕末に藩主となった【烈公】斉昭公の歴史もお伝えする予定です。






















史書を作らねば人心を感奮興起させる事は出来ない。