福井駅から数分の場所にある北ノ庄城址。築城主は織田信長公の家臣だった柴田勝家公。お城とともに福井の城下町を整備し基礎をつくった武将です。
猛将 柴田勝家公
柴田勝家公は尾張国愛知郡生まれ。織田信長の重臣として有名ですね。(出生年は諸説あり〜没年は1583年)。大体になりますがここ数年間で生誕500年だそうです。天正三年(1575年)八月、越前一向一揆を滅ぼした信長公は、越前49万石を勝家公に与えました。勝家公は、足羽川と吉野川との合流地点である北ノ庄に城郭を築き壮大な天守閣を造営しました。後に落城してしまいますが、とても立派なお城だったようです。
本国宛てにポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、「この城はとても立派で、今工事をしており、予が城内に進みながらみて最も喜んだのは城及び他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである。」と報告しています。
JR福井駅から数分の場所にある北ノ庄城址・柴田公園。左側にある建物が柴田神社で、その場所に本丸があったそうですが後に秀吉公が攻めた際に戦況を小早川隆景公へ報じた書簡で、「城中に石蔵を高く築き、天守閣を九重に上げ候」と記していたという。九層(階)の高層城だったようです。
石垣が残されていて見ることができました。石蔵や高い石垣を作るには、良質な石が必要ですが、勝家公は笏谷石の産出地である足羽山から石垣や屋根瓦など調達しました。同時に城下町も整備し現在の福井の基礎をつくりました。
銅像ですが緊張するぐらい覇気を感じます。この北ノ庄城は落城せず勝家公が勝っていたら、どうなっていたでしょうか。
こちらの柴田神社には、武将印と御朱印もあります。猛将勝家公の迫力すごくあります。訪れた時は、通常盤と桜verがありました。
柴田神社オリジナルの御朱印帳もありました。勝家公とお市の方が表紙ですね。
お隣には北ノ庄城資料館がありました。午前9時から午後6時まで。
オリジナルのお煎餅やグッズ・年表や資料なども展示してありました。
お市の方
柴田神社には勝家公の他にも像があります。「お市の方」の像です。戦国時代では、淀殿に次いで有名なお姫様ではないでしょうか。詳しくは知らなくても名はご存知の方が多いはず。絶世の美女と言われ銅像も「美モテ」祈願のノボリが立つほど。
美モテ祈願書なるものも出て、参拝される方もいらっしゃいます。高野山持明院所蔵の肖像画は有名。太閤記では「楊柳(ヤナギ)の風になびくごとく、顔色の艶にうるわしきは芙蓉の露にいたむともいいつべし・・」と書かれました。
織田信長公の妹で政略的婚姻により近江の小谷城主であった浅井長政公に嫁ぎ(長政公20歳、お市の方17歳)、二男三女をもうけました。しかし、小谷城はその後、姉川の戦いにて落城。小谷城城主淺井長政公の勧めで信長公の元へ帰され、天正十年(1582)10月三人の娘を連れて柴田勝家公のもとへ嫁ぎますが翌年賤ヶ岳の戦いにて羽柴秀吉に滅ぼされてしまいます。勝家公はお市の方に娘と共に北ノ庄城を出るように諭しましたが、お市の方は娘三人を秀吉公の陣まで送り届けた後お城へ戻ると夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害しました。享年37歳。
北ノ庄城 最後の夜
もとろもに自害して同じ蓮台で相対しましょう。
お互いに見つめ合ったところ、外でホトトギスが一声鳴きました。するとお市の方は
さらぬだに 打ぬる程も夏の夜の 夢路をさそふ ホトトギスかな
と詠み、これに勝家公はこう返しました。
夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ 山ホトトギス
天正十一年四月二十四日 申の下刻(朝5時ごろ)北ノ庄城落城。
その後、結城秀康公により城下を含み福井城が築城されました。
浅井三姉妹
淺井三姉妹の銅像もありました。かわいいお江ちゃん。長女の茶々、次女のお初、三女のお江。三人もいるのでごっちゃに覚えてしまいますね。その後の三人について整理しますと
長女の「茶々」(淀殿)
父浅井長政と母お市の方との間に誕生した長女。小谷城落城後、秀吉公の側室となり寵愛を受け秀頼公をもうけ母となります。しかし慶長十九年(1614)に勃発した大阪の陣で徳川家康公の大軍と交戦。翌元和元年5月8日、秀頼公と共に大阪城中で自害。享年四十九歳と伝わります。
次女の「お初」
姉の茶々とお江と共に秀吉公に引き取られたあと、のちの従兄弟、京極高次公に嫁ぎ忠高公をもうけます。高次公は慶長五年(1600)関ヶ原の戦い後、9万2千石で若狭国小浜城主となります。慶長十四年、夫と死別後、剃髪して常高院と号して度々淀殿を訪問。大阪の陣では徳川家康公の命を受け大阪城に和平への交渉役にもなりました。姉の淀殿とどんな会話をしたんでしょうね。しかし願いは届かず・・・。寛永十年(1633)8月27日江戸において死去。享年66歳
三女の「お江」
豊臣秀勝公などと再婚を重ねた後に、徳川二代将軍秀忠公の正室となります。秀忠公との間には七人の子宝に恵まれました。長男家光公は三代将軍、次男忠長公は駿河大納言となります。長女の千姫は淀殿の長男秀頼公の夫人になり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、三女の勝姫は福井二代藩主松平忠直公に嫁いでいます。四女初姫は京極忠高公の正室、五女和子は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となります。寛永三年(1626)9月15に江戸城において生涯を終えました。享年54歳。お江ちゃん大人のお顔もかわいいです。
柴田勝家公とお市の方の墓所
二人の墓所は北ノ庄城にあると思われる方が多いそうですが、足羽川を挟んだ向かい側の「足羽公園口」から足羽公園側(山側)に3つほど道路を跨いだ場所にある「西光寺」の一角にあります。横には資料館もあるようです。
「勝家は、西光寺9代真誉上人に自らの死後の供養を懇願したと伝えられており、西光寺を菩提所に定めた。毎年4月24日には2人の命日法要が営まれている。」とあります。毎年その時期にお祭りも行われ、北ノ庄神社からこちらの場所まで武者行列があるということです。
周辺の施設・名所
●桜の名所 足羽川
北ノ庄城址の前の大通りから西に数分。大きな橋「幸橋」と足羽川。
川の両岸には桜並木が続きお花見の季節には最高のロケーションが広がります。私はこれほど河原に咲く桜は生まれて初めて見ました。土手でお花見いいですね。
●由利公正公の像
幸橋のそばにある由利公正公の像。由利公正公の邸宅があった所で、明治33年から44年にかけての河川改修工事で無くなってしまったようです。「この付近は、かの明治政府初代の財政担当者としてまた、五箇条の御誓文の起案者として知られている福井藩出身の逸材由利公正の宅跡である。
彼は在藩時代、三岡八郎と称して、ここに居を構えていたが、幕末維新の大立物坂本龍馬や福井藩の賓師として名声のあった横井小楠が彼を訪ねてここに足跡を印したことがある。」と記されています。
JR西日本 福井駅
福井県と言えば「恐竜」ですね。平成28年には北陸新幹線金沢開業に伴い恐竜モニュメントが登場し恐竜王国への玄関口として訪れた人を驚かせています。夜もライトアップされていて迫力満点です。
この北ノ庄城は風前の灯で明晩には消えさるであろう。御身は信長公の一類だから秀吉も命を助けてくれるに違いない。明朝、敵陣へ案内しよう。