【東京都】隅田川と大江戸四橋物語①/両国橋・新大橋

 首都東京の名所である浅草と東京スカイツリーの間を貫き、両国・日本橋・深川・浜離宮・お台場レインボーブリッジなど、数ある観光地を巡る一級河川の隅田川。毎年行われる恒例の花火大会は有名で多くの人で賑わいます。長さ23.5mのその川には現在多くのJRや私鉄などの専用橋・地下道などの通路も含め多数の橋が架かっています。

 そんな隅田川ですが、徳川家康公が江戸に移封された時代は千住大橋という橋が一つ架かるのみでした。その後、家康公が江戸幕府を開府し日本最大と言われる江戸城を築城、城下町も整備に取り掛かりました。全国の諸大名のお屋敷が次々と建てられ、警護するお侍、商いや仕官を求めて街道を通り訪れる多くの人たちで江戸は溢れかえりました。その後の発展はご存知の通り。

江戸時代に隅田川に架けられた四つの橋

ただ江戸城の防衛と財政上の理由から川には橋は架けられず、「渡し」と言われる舟での渡河が主流でした。幕府が恐れたのは西国武士たちの反撃。川は、年貢米や木材などの水運に便利でしたが、やはり防衛上重要な役目である外堀として、一切橋を架けることを禁じていました。

それは江戸だけにとどまらず、東海道を横切る河川にも適用され渡し舟や人足が人を乗り川を渡りました。もう一つの問題は増水氾濫によって橋が何度も落ちてしまい、修繕や再架橋で莫大な費用がかかる事。さぞ不便だったでしょうが、その後の大きな災害がきっかけで隅田川に橋が架かる事になりました。※歌川広重「東海道五十三次 金谷 大井川遠岸」

明暦の大火

 その災害とは明暦三年(1657)に起きた「明暦の大火」。江戸三大大火の中で一番被害と死者(十万人とも)を出しました(あと二つは明和の大火・文化の大火)。

武家屋敷が六割・寺社が二割を占め、残り二割の土地に人口の半数以上の町民が密集していたのですから一度火災が起こると手がつけられません。火災が起こると瞬く間に燃え広がり、江戸城の大天守、武家屋敷も含め江戸中が大火に。このとき、神田・日本橋側の御城下の町民も隅田川の向こう岸へ逃れようとしましたが、渡れず大勢亡くなってしまいました。※江戸城内天守模型

この出来事がきっかけで、幕府では「隅田川に架橋するべきか否か」の議論が行われることに。多くの重臣たちが防備上と財政上の理由から架橋に反対する中、大老酒井忠勝公の

酒井忠勝公

川が城を守るようでは、おしまいだ。あくまで人が守るのだから、諸人災害の元をまず取り除こう。

その一言で架橋が実現へと運び、寛文元年(1661)「大橋(両国橋)」が完成しました。

江戸幕府時代①番目の橋 両国橋

長さは96間(約175m)の木造橋その優美な曲線は美しく、橋の上に立てば遠くは富士の山、西を向けば下総房総の山々が眺められ、葛飾北斎が描くほどの江戸の新名所となりました。「大橋」という名でしたが、上流に大橋(千住橋)で混同する事もあり、川向こうの「下総國」「武蔵國」との両国に架かる「両国橋」と人々に呼ばれました。

架橋の年には、水辺以外での打ち上げが禁止されていた「花火大会」も行われ、享保十八年(1733)以降は防火上のため5月28日から三ヶ月間の期間を定め花火大会が毎年行われるようになり、それは現代まで続いています。

ただ架けただけでなく大火に対する備えも整備されました。橋の両袂の人家を疎開させ火除地にしたり、延焼防止に広小路や空き地を作り、普段は見世物小屋や立ち食いそばの屋台を並べ利用する一方、徳川将軍の鷹狩りの日には、一斉に店を閉め通行を妨げないように配慮するなど江戸っ子たちも協力しました。

その努力も実り、膨らみ続ける江戸の人口を支える大動脈として無くてはならない存在になりました。しかし、一方で木製の橋ならではの問題「流出・焼落ち」…。幕府はそのつど防備上、財政上の理由から両国橋を廃止しようとしましたが、

江戸っ子

何とぞ必要な橋ゆえに存続・維持を,,,,,

幕府重臣

そなたらが莫大な修繕・維持費用をもつなら許可しよう。

そこで江戸っ子たちが話し合い、「橋の通行料」を徴集し維持していく事で存続が決まりました。

江戸で起きた歴史の舞台

 元禄十五年(1703)に起きた「赤穂浪士の討ち入り」。吉良邸へ討入後に、両国橋を渡った事でも知られています。※写真:赤穂大石神社内(兵庫県)。赤穂義士の手前に馬に乗った役人らしき人たちが通せんぼしてますが、この日の両国橋は大名行事で使用されるため、下流の永代橋を渡るように指示され、そちらへ義士たちは迂回したようです。

花火大会での落橋

近代に入った後の明治三十年(1897)川開きの花火大会で落橋事故がおきました。その日は久しぶりの晴天で、朝から多くの人で両国橋の両岸と橋上は賑わいました。当時の東京の人口は200万人、そのうちの40万人が訪れたというとその混雑ぶりが思い浮かびます。

夕方、予定通りに打ち上げ花火が終わり、クライマックスの仕掛け花火の「八方矢車」が始まり大歓声!と同時に橋の欄干が人の重みで折れ落ち大勢の人が川へ真っ逆さま。ある者は川に落ち溺れ、ある者は屋形船の屋根に落ち、命は助かるものの大怪我に。惨事になってしまいました。

事故の原因は、当時警備をしていた警官が、通行の為に橋上の見物人を両端に詰めさせ、橋の真ん中を通行の為に空けさせた事でした。その為、過度の重さが欄干にかかり折れたようでした。その後、再架された両国橋は、しっかりした近代的な橋に何度も架け替えら現代に。

周辺の観光スポット

両国国技館

言わずと知れた両国の代名詞とも言える大相撲が行われている「両国国技館」。相撲の歴史は古く、日本書紀にも記されています。郷土力士が勝つと嬉しいですね。

JR東日本 両国駅

レトロチックな駅舎ですが、構内には至るところに大相撲関係の銅像や手形とサインなどが飾られています。

旧国技館跡

「旧国技館は、天保四年(1833)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値で75億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は13000人でした。開館当時は両国元町常設館と言う名前でしたが、翌年から国技館と言う呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。」

都指定旧跡 吉良邸跡

屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側で東西南の三方は周囲に長屋にあり、北側に本田弥太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。現在「吉良邸跡」として残るのは、29.5坪(約98m2)で、当時の86分の1に過ぎません。

昭和九年(1934)地元両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良公御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年三月に東京市に寄付し、貴重な旧跡が維持されました。区への移管は昭和二十五年九月です。

毎年12月14日の討ち入りの日には、赤穂四十七士と、吉良二十士の両家の供養を行う「義士祭り」が両国連合町会主催で行われ、12月の第二土曜日・日曜日には、両国三丁目松坂睦主催で地元商店会をはじめ100店余りが出店する「元祿市」も開かれています。

江戸幕府時代②番目の橋 新大橋

元祿六年(1693)十二月、飛躍的に開発が進んだ両国橋の川下に架けられました。日本橋浜町河岸から深川六間堀を結ぶこの橋は「新大橋」幕府により命名されました(両国橋が旧大橋だったので)。

無数のお堀で繋がれた物流網「深川」と魚の貯蔵地でもあった「日本橋」とをつなぐ連絡橋が望まれたわけです。※絵図:日本橋(葛飾北斎)

道路沿いに「旧新大橋跡」の石柱。元々の橋の位置は、所在地より約200mほど下流に架けられていました。「旧新大橋は元禄六年十二月この地先の隅田川に架設起工し52日間で完成し、長さ百間(約182m)幅員三間七寸(約6m)あり、当時橋名は両国橋を大橋と称していた。」

「新大橋は、隅田川に架かる三番目(千住橋を含むと)の橋として元禄六年(1683)に架けられました。この橋の架設により江戸市中との交通が便利になり、深川の発展に大きく影響しました。岸の袂には当時の様子を遺す絵が飾ってあります。

「新大橋は、元禄六年(1693)五代将軍綱吉のころ架けられたのが最初である。当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。

新大橋の「あたけ」とは、対岸につないであった日本一の木造軍艦「安宅丸」に由来する地名のことである。」岸の袂にある「御船蔵跡」の石碑。「宅町という地名は安宅丸が由来とされています。」

当時、松尾芭蕉翁の居宅があった付近には「江東区芭蕉記念館」があり、館内の庭園には「芭蕉庵跡」の石碑と石像があります。松尾芭蕉翁は、多くの人に望まれた架橋の様子を「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」と詠んで喜んでいたと言われています。この深川は、「奥の細道へ出立の地」としても知られていて芭蕉ファンが訪れる場所でもあります。

江戸っ子たちに歓迎された新大橋でしたが、元祿年間(1688〜1704)で2回、享保年間で13回も修理を要したので、幕府は経費節減のために廃橋にしようとしました。しかし、こちらの橋も両岸の住民たちが立ち上がり、延享元年(1744)経費の民間負担を条件に存続することに決まりました。

明治45年(1912)七月に鉄橋として現在地に架け替えられた後に

昭和62年、現在の新大橋に書き替えられ、旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋である事から、愛知県の明治村へ移され保存されています。

周辺の立ち寄りスポット

江東区芭蕉記念館

新大橋の深川にある「江東区芭蕉記念館」。文字通り松尾芭蕉翁に関する資料館になっています。館内には、松尾芭蕉翁の居宅があった芭蕉庵跡もあります。

営業時間は、朝9時〜夕方5時まで。休館日は第2・第4月曜日。最寄り駅は最寄りの駅は、都営新宿線/都営大江戸線「森下」駅、A1出口徒歩7分。

芭蕉稲荷神社

「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」などの名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正六年の津波来襲のあと芭蕉が愛好したと言われる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏など地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。」

神社自体はひっそりと小さいですが、御朱印用の印があります。ご自分で押せるようになっています。

浜町公園

新大橋を江戸城方面に渡った先、日本橋浜町にある「浜町公園」。元々武家屋敷があった敷地ですが、現在は公園化されスポーツセンターなどがあります。遊具などもあり、都会の中の憩いの場になっています。

その一画には、肥後熊本藩主だった加藤清正公ゆかりのお寺「清正公寺」があります。

江東区深川江戸資料館

現在では失われた当時の江戸っ子が暮らした深川佐賀町を館内にて再現されています。本物の水を入れて船着場も再現されているのには驚きました。営業時間は朝9:00〜17:00まで。休館日は第二・第四月曜日。

三番目、四番目の橋は、その②へ続きます。

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