【神奈川県】護良親王之墓と身代わり神/鎌倉市 建武十五社鎌倉宮

鎌倉というと源頼朝公が開いた武家政権の鎌倉幕府。鎌倉幕府のその守護神として御鎮座されている鶴岡八幡宮が人気ですが、その鎌倉幕府打倒を旗印に各地の御家人と後醍醐天皇と皇子、忠臣が祀られいる建武十五社神社が、すぐ近くにあります。

JR東日本 鎌倉駅

洋風でシックな駅舎。歴史ある有名な観光地だけに乗り降りする人が多く、休日の出入り口は大混雑しています。大塔宮鎌倉宮へ向かうには、駅前バスロータリーの5番乗のりばで「大塔宮行き」の乗れば8分ほどで着きます。便も多く鶴岡八幡宮前も通ります。

大塔宮 鎌倉宮

とても綺麗な鳥居が美しい「官幣中社 鎌倉宮」。御祭神は「大塔宮護良(もりよし)親王」。護良親王は、鎌倉幕府打倒をうちたてられた後醍醐天皇の第三皇子として延慶元年(1308)に誕生。六歳にして天台宗梶井門跡(京都東山岡崎)にて出家され、尊雲法親王と称されました。

「大塔」の名の由来は、岡崎の法勝寺九重大塔の辺りに門室を構えられたことによります。十七歳で三千院門主、十九歳で天台主となられました。「太平記」には、武芸を好む異例の座主でした。

「大塔宮(だいとうのみや・おおとうのみや)」と読みます。鎌倉神社明治二年(1869)、明治天皇の勅命により創建されました。

この日は、「七夕祈願祭」の日でしたので、境内の至る所に七夕の飾り付けがされていました。

短冊には「時やいつ 空に知られぬ月雪の 色をうつして卯の花 覚助法親王」覚助法親王とは、後嵯峨天皇の皇子で鎌倉時代の僧で歌人でもありました。

「後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)天皇を祭神とする神社です。護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。幕府が滅亡して天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられました。写真:後醍醐天皇

その後足利尊氏と対立して捕らえられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。十月には境内で薪能が催されます。

高田みかん 「日本武尊の父の景行天皇が九州に御征西中、肥後八代の高田に植えられた日本最初のみかんの木」。現在の熊本県八代市の高田地区にあるみかんで、九州征伐で八代入りした太閤秀吉公も美味しいとお気に入りだったと伝えられています。

獅子頭 参拝の前に身を清める手水舎はコロナの影響で使えませんでしたが、代わりに「獅子頭」が並んでいます。厄を食べて、幸せを招くと言われる獅子頭。護良親王が戦の時に兜の中に入れて御出陣されたという獅子頭に因み御守りとしても社務所でいただけます。

宮さまの盾 御祭神 大塔宮護良親王(宮さま)の力強い御神徳により、みなさまの幸せを守っていただける盾です。

亀若丸 この亀若丸の頭を撫で、折鶴を一つづつお持ち帰り頂くと、「つる」と「かめ」が揃い「健康成就」のご利益が得られます。

厄割り石 小皿が沢山置いてありますので、初穂料を入れてお皿を持ちます。

手順に従い、お皿に息を吹きかけて、

枠割り石と呼ばれる石に落とし、お皿を割ります。

村上社

御本殿の横に御鎮座されている「村上社」があり、御祭神の村上義光公の木像があります。「身代わりさま」と呼ばれています。自分の治したい所・良くしてほしいと思う部分と同じ場所を撫でた後、絵馬に願い事を書いて納めます。

撫で身代わりの由来 村上義光(よしてる)公は護良親王の忠臣にして、元弘三年(1333)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。

そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき、自分が着用して

「我こそは、大塔宮護良親王ぞ!汝らに腹を切る時の手本とせよ」と告げて腹を十文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は南に向かって落ちのびました。このように身代わりになられた村上義光公を境内に樹齢103年の大木にて掘り上げ「撫で身代り」として入魂致しました。写真:吉野山蔵王堂(奈良)

境内には持明院南御方が御祭神の「南方社」。その他「宝物館」もあり、南北朝時代・大塔宮・建武中興十五社に関する歴史を学べます(有料)。

御朱印

全国各地に点在する建武十五社用の御朱印帳も取り扱っておられます。

七夕祈願祭の日だけいただける御朱印もあります。

ゆかりの武具

大塔宮護良の兜「紅糸威星兜」(べにいとおどしほしかぶと)は、東京国立博物館の所蔵で、令和四年に展示されていました。愛媛県今治市大三島町の大山祇神社宝物館には、護良親王が奉納した「牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵」が展示されています。

大塔宮 護良親王墓

大塔宮鎌倉宮よ徒歩で数分の場所に大塔宮護良親王のお墓があります。残念ながら台風の後で、崖崩れの危険性があるため通行止めになっていました。

村上義光父子の奮戦(太平記)

元弘二年(1332)十一月、鎌倉幕府は、後醍醐天皇方の倒幕の動きを鎮圧するために、50万の大軍を京都へ進めました。護良親王は熊野より吉野に移り城郭を構えますが、二階堂道薀率いる幕府軍の激しい攻防に死を覚悟し、庭前にて最期の酒宴を催しました。そこで、村上義光父子は親王の身代わりとなることを決意しました写真:吉野山吉野朝宮跡/吉野城跡(奈良)

両軍の鬨の声が入り乱れた吉野山の金峯山寺の本堂の蔵王堂まで聞こえてきました。村上左馬助義光は、その日の合戦で、鎧に立つ十二本の矢は、まるで枯野に残る冬草が風に吹き倒されたように折れ曲がっていた。その姿で大塔宮の御前に参上し

村上義光公

敵は軍勢が優勢なことに乗じて攻めかかり、見方は気勢が衰えてしまいましたので、この城で敵を防ぐことは、今はできないと存じます。敵が軍勢を他の口へ回さぬうちに包囲網の一つを打ち破って、ひとまずお逃れになっていただきたいと思います。

村上義光公

ただ、その後に踏みとどまって戦う者がいなければ、宮様がお逃れになったものと察知して、敵はどこまでも追いかけて来るでしょう。恐れ多いことでございますが、お召しになっている錦の御直垂と鎧とを私めの御下賜いただき、僭越ながらお名前を拝借して敵を欺いて、お命にお代わりしたいのです。

大塔宮護良親王

大将が配下の士を思うのは、親が子を思うのと同じだ。私は何度も自分自身で危難を砕いて、命を捨てるような経験をしたのだ。

とおっしゃいました。しかし、村上義光は声を荒げて

村上義光公

残念なお言葉でございます。とりわけ忠義の臣下が命を捨てることは、このような場合においてなのです。何をお気にかけることがありましょう。こんな程度のお考えで、天下統一の大事を思い立たれたとは、残念に存じます。

そういうと宮様のお鎧の上帯をお解きながら道理を説きました。大塔宮もお鎧と直垂を脱ぎ替えなさって

大塔宮護良親王

ただいまのお前の忠義は永遠に忘れない。最初この吉野城に立て篭もったときから、私は死を士卒と同じくし、天運によって事を進めようと思ったのであるが、今はお前が私のために命を捨て、私は逆にお前の代わりに命をまっとうするということは、思っても見なかったことだ。

村上義光公

ははっ!涙

大塔宮護良親王

もし、私が生き長らえたら、お前の後世を弔おう。思いも寄らず、二人とも敵の手にかかるなら、生き隔てる冥土の道までも行動を共にし、六道の分かれ道に駆け向かって、同じ所で一緒に死のう。

とおっしゃり御涙にくれなされたので宮に付き従う官軍の兵たちは、皆この様子に鎧の袖を絞るのであった。その後、宮様が無事に落ち延びられたと思われる時分になってから高櫓に上り敵に身を晒しました。

村上義光公

我こそはもったいなくも人皇九十五代の帝、先帝の第四王子、一品兵部卿(護良)親王である!反逆の臣下のために滅ぼされ、その恨みを冥土で晴らすために、ただ今自害する。この有様を見ておいて、間も無くお前らの武運がすぐ尽きて腹を切るときの手本にせよ

と最期の言葉を残し自害しました。すると正面と裏手の寄せ手は、村上の最期を見て

寄せ手

大塔宮が御自害なさったぞ。我こそ先に御首を頂戴しよう。

四方の囲みを解いて一箇所に集まってきたので、入れ違いに宮は天河(吉野郡天川村)へ逃れて行かれました。写真:吉野山蔵王堂

子の村上兵衛蔵人義隆

吉野山の南側から来た吉野の執行(寺院の事務職)の軍勢5000余騎は、土地をよく知っているので、天河への道を妨害し多くの軍勢を依頼して宮を討ち取るために取り囲もうとしました。村上義光の子息である「兵衛蔵人義隆(ひょうえくらんどよしたか)」は、父と共に自害しようと吉野城の第二の木戸の櫓の下まで急いで来ましたが、

村上義光公

宮の御行く末を見届けて申しあげよ。

と教訓を遺されたので、仕方なく僅かの命を生き長らえて、宮のお供を申し上げていました。しかし、状況が切迫し、自分が討死しなければ宮様は御逃げれになれまいと思い、一人そこに踏み留まり殿として追ってくる五百騎の敵兵を相手に一時間ほど防ぎ支えました。

しかし取り囲んで射た敵の矢に義隆は十数箇所の傷を受けていたが、たとえ死んでも敵の手にはかかるまいと思ったのであろう、小竹が茂っている中に走り込んで自害しました。こうして村上父子が敵を防ぎ討死したその間に、宮様は辛くも死から免れなさって高野山へ御逃げになったのです。(太平記)

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