JR東日本 会津若松駅

JR会津若松駅に到着。ここから先は新潟へ向かう堂島駅と郡山へ向かう広田駅への二手に路線が分かれています。

「ようこそ会津若松へ」、会津のシンボル鶴ヶ城(若松城)と武者行列でしょうか?お出迎えしていただけました。

赤べこさんとキャラクターたち。神社のお神輿でしょうか。会津というと、やっぱり赤べこの赤色がイメージカラー

会津では馬刺しも名物なんですね。自販機があります。

幕末時代に会津ゆかりの新撰組のくりぬきパネル。京都守護職に就任した会津藩主松平容保公が京都の治安維持を目的に組織した新撰組。会津には局長近藤勇の墓所もあります。

駅舎も赤いお屋根のお城風の外観で、タイムスリップした気分。駅前に立つ白虎隊士像と赤べこさん。中にはお食事処もあります。

赤べこさん可愛いですね。何やら赤いボタンが気になります。案内文も無いので少々怖いですが押すと「トコトコ会津はいい〜トコだ〜♫」と観光案内が流れました。

駅の時計もこのように凝っていますね。

駅前から周遊バスに乗り早速お城へを目指します。会津若松駅から鶴ヶ城まで行くには、観光客に嬉しい「一日フリー乗車券」が便利です。車内案内を聴きながら会津の城下町を通り目的地まで運んでくれます。
鶴ヶ城入口

北国ならではの縦型信号がある「北出丸」交差点。こちらから鶴ヶ城入口(正面)から入れます。周りの建物もいい感じです。

鶴ヶ城跡の石碑の後ろには内濠と石垣がかすかに見えてきました。

「南北朝の頃、葦名氏によってここに館が築かれたが、文禄二年(1593)蒲生氏郷が七層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。上杉から再蒲生そして加藤となり、寛永十六年(1639)加藤明成がいる。戊辰の役(1868)では1ヶ月の籠城に堪えた。」
会津名物天ぷら饅頭

本丸へ向かう途中にある「本丸茶店」さん。焼きだんごや馬肉フランク、玉こんにゃくなど多くのメニューがありますが、「天ぷらまんじゅう」というネーミングに惹かれ購入しました。

名前のとおり衣に包まれた揚げ立てのお饅頭です。

気になる中身ですが、甘い餡子が入っていました。温かくて美味しゅうございました。雪国会津ならではのお饅頭ですね。
鶴ヶ城(黒川城・会津若松城)

鶴ヶ城子入口停留所で降り、中央上部の交差点からお堀沿いに下ってくると天守閣がある本丸に着きます。お城の右側には福島県立博物館があり、西出丸と東口・南口に駐車場があります。

鶴ヶ城本丸の周りには深い内堀があり、二の丸の端には伏兵廊なる出丸があり、橋を渡って侵入してくる敵を側方から攻撃できるようになっています。

赤い屋根と白亜のコントラストが美しい五層の天守閣。それを取り囲む白砂利と緑の芝に松、とても気品あふれる本丸です。

天守閣の内部は展示館となって降り、最上階から展望もできます。お城の下から手前に長く伸びた櫓は「走長屋」と「干飯櫓」で、お城の出口から途中までミュージアムショップとなっておりお土産品や書籍などが販売されています。

また季節ごとに様々な期間限定の企画されています。特に個人的に興味があったのは、「刀・刀装具」。土方歳三の愛刀
南北朝時代:築城主 芦名直盛氏(蘆名氏)
鶴ヶ城の前身は芦名氏(蘆名氏)が建てた東黒川館。平安時代後期、相模國の三浦義明の七男佐原義連が源頼朝公の源平合戦、奥州合戦で活躍した功により会津地方を賜り治め、三代光盛の時に故郷の相模國三浦郡芦名に因み芦名氏と称しました。

南北朝時代動乱期、足利尊氏の北朝側から新田義貞の南朝側に転じ戦い、至徳元年(1384)七代直盛公が会津郡門田荘黒川に館を建て「黒川城」と呼ばれました。
戦国時代:伊達政宗公

時は流れ戦国時代の天正十七年(1589)、芦名直氏は摺上原(すりあげはら)の合戦に新興勢力の伊達氏に敗れ滅亡。勝利した伊達政宗公が新しい城主となりましたが、小田原を平定した関白秀吉公より「私戦禁止令を無視した罰」として旧芦名氏のお城と領地共に没収され、伊達氏は会津を去り米沢城へ戻ることになりました。
戦国時代:蒲生氏郷公

伊達政宗公に代わって城主になったのは築城の名手と言われた蒲生氏郷公。文禄元年(1592)氏郷公から任された甲州流の名築城家曾根内匠の縄張りによって大々的にお城を築城し直しました。

「七重の殿守、月見櫓に太鼓門、その外に殿々金銀をちりばめたり。大名小名(家臣)出仕には、座中日々に市となす。めでたかりしことどもなり。(氏郷記)」

蒲生時代の表門。平らで整った打ち込みハギといわれる石垣で、敵が簡単には登れないのが特徴です。

その他の石垣は、切り込みハギ。江戸時代の徳川政権期に増設されたのでしょう。大阪城や江戸城でも見受けられます。

お城の防衛と言えば、石垣と堀。時代の移り変わりにより進化した石垣詳しい解説は城内にあります。
赤べこの由来

蒲生氏郷公が始めた民芸品で、赤い牛の形をした福島県会津地方の郷土玩具「赤べこ」の由来は、9世紀(平安時代)に柳津町の圓蔵寺が創建された際、荷を担いでいた牛がモデルと言われている。

昔、疫病が流行したとき、この赤い玩具を病気の子供に贈ったところ、たちまち病気が治ったという伝説があり、現在でもお守りとして会津名物です。
天守

最上階の天守からの眺めを見ずには帰れません。高い階層の階段で危険なので、転落防止のネットが張ってあります。

山に囲まれた会津盆地の景色と心地よい風が吹いていて爽快でした。
氏郷公により、お城の名は「鶴ヶ城」、黒川の城下町は「若松」と命名、九十ニ万石の太守の城となりました。「鶴」にした理由は、蒲生氏の家紋に鶴が多く用いられたから、または幼名が鶴千代だったことなどの説があります。
戦国時代:上杉景勝公

氏郷公の子秀行が宇都宮に転封となり、秀吉公が逝去した慶長三年(1598)、勢いを増す東国の徳川家康公を牽制するため豊臣五大老の一人である上杉景勝公が百二十万石で会津に入りました。写真:上杉景勝公像(左)直江兼続公(右)(米沢城内)
関ヶ原の合戦後:蒲生氏郷公

二年後の慶長五年(1600)関ヶ原の合戦で西軍が敗れたため上杉氏は米沢へ移され、再び蒲生氏郷公が城主へ。徳川の天下のもと城下の産業を振興し、会津の経済基盤の確立に尽力。信長公・秀吉公の家来だった事もあり、楽市楽座の導入や南蛮貿易の条件であった洗礼を受け(レオ)キリシタン大名となった事でも知られています。
江戸時代:加藤喜明公〜保科正之公

蒲生氏断絶後は加藤喜明公が入城、寛永十六年(1639)加藤明成公が七層だった天守閣を五層に改築。その加藤氏もその後改易となり、寛永二十年(1643)徳川二代将軍秀忠公の第四子である保科正之(ほしなまさゆき)公が二十三万石で入城。雪に強い釉薬を使用した赤瓦を考案しました。写真:会津城会館内

その保科氏三代当主正容公の代に松平氏を称し、以降松平氏は代々会津藩を治めました。そして九代松平容保公の頃、運命の幕末を迎えました。
幕末時代:会津藩最後の藩主 松平容保公

「岐阜高須藩から12才で会津藩主八代容敬の養子になります。幕末の激動期に京都守護職に就き、孝明天皇の信頼を得、公武合体に力を尽くしましたが、時代は急転し、戊辰戦争へと突入して行きました。江戸無血開城後、会津藩は西軍(新政府軍)の敵意を一身に受け、恭順も受け入られず、徹底的に痛めつけられました。

1ヶ月に及ぶ籠城戦を経て、西軍(新政府軍)に降伏し、城を明け渡すという屈辱を味わいました。その後、日光東照宮の宮司を務めました。」
幕末の会津藩

京都守護職として勤王志士を弾圧した事や鳥羽伏見の戦いの主力になった事により新政府軍の攻撃目標となりました。鬼官兵衛と称された佐川官兵衛清直(一千石)の奮戦もありましたが、同じ家老の神保内蔵助利孝、田中土佐は自刃、萱野権兵衛は斬罪。のちに容保公の長男容大(かたはる)公に斗南藩三万石で家名取立てが許されました。
国史跡指定 若松城へ

傷ついた鶴ヶ城は陸軍の使用になる事になりましたが、修復費は地元が負担する事になるため、やむなく天守閣を始め櫓や城門など全ての建物が取り壊されました。

建材の落札価格は862円。土井晩翠の「荒城の月」(作詞)は、この鶴ヶ城跡でつくられたともいい、本丸の一角にはその詩碑が立っています。昭和九年(1934)文部省よりの指示により所在地「若松市」を入れた「若松城跡」として国史跡登録されました。

一時は競輪場になりましたが、昭和四十一年に天守閣が再建され、黒鉄門や走長屋も復元されました。
茶室 麟閣

本丸南側には茶室「麟閣」という茶室があり、一般の方も観覧できます。大人210円・小・中学生無料です。

「天正十九年茶道の祖・千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ、死を命じられました。その時の会津藩主・蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子小庵を会津にかくまい、徳川家康と共に千家復興を秀吉に願い出ました。

その結果、小庵は京都に帰って千家を再興し、宗左、宗室、宗守の三人の孫によって、表、裏、武者小路の三千家が興され今日の茶道の基礎が築かれました。この小庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷の為に造ったと伝えられています。

江戸時代の初期から中期にかけて現在の様式に改められたと考えられる茶室です。戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、平成二年に建造当初の地に移築・復元されました。」

御城印

御城印は本丸休憩所内で「家紋入り鶴ヶ城」「赤べこ入り会津若松城」の二種類販売されています。
周辺スポット
●鶴ヶ城会館

鶴ヶ城入口隣にある「鶴ヶ城会館」さん。食事や土産品販売、ジオラマ展示など観光客が一息つける屋内施設です。容保公と白虎隊の姿が見えますね。年に一度
●北出丸大通り

最初に来た鶴ヶ城入口からのびる大通り。ここは、会津戊辰戦争終結の地。「明治元年(1868)九月二十二日午前十時、会津藩は鶴ヶ城の北出丸に「降参」と大きく書かれた白旗を揚げました。そして正午に、追手門に通じるここ甲賀町通りの路上で降伏式が行われました。

地面には、家老内藤介右衛門邸にあった4.5m四方の緋毛氈(赤色の上質な敷物)が敷かれ、その上に会津藩主の松平容保・喜徳父子が立ち、西軍(新政府軍)の軍監である中村半次郎らに嘆願書を渡しました。一ヶ月に及び必死に戦い続けた会津藩の篭城戦は、正式に幕を降ろしたのでした。

式が終わると会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬようにと、敷かれていた緋毛氈を次々と切り取り、その小片を懐中深く持ち帰ったのでした。のちにこの毛氈は「泣血氈」と呼ばれるようになり、この日のできごとを語り継ぐ重要な「証」となりました。

幕末に詳しい方ならご存知の京都守護職の会津藩主松平容保に同行し、公用人として諸藩や公卿との交渉に活躍。開城式を取り仕切りました。晩年は第五高等学校(熊本大学)で教鞭を執っていた頃、同僚の小泉八雲は悌次郎の高潔な人柄と深い学識にふれ、「神様のような人」と敬愛しました。熊本大学では、今もって、悌次郎、小泉八雲、それに夏目漱石を〝三先生〟と称しています。

文久三年(1863)世にいう「八月十八日の政変」の主導的立場で、会津藩と薩摩藩が手を組み長州藩及び七公卿を京から追放した事でも知られています。そして、のちに起こる蛤御門の変へと発展していきました。
名物ソースカツ丼

駅中の会津山塩食堂さんにて「ソースカツ丼」を美味しくいただきました。以前群馬でも食しましたが、もともと会津発祥のメニューという事を知りました。タクシーの運転手さん曰く鶴ヶ城近くの「寿治左エ門」というお店が人気だそうです。
宿泊

宿泊は、駅前バス停留所横に建っている「駅前フジグランドホテル」を利用しました。ここまで近いと探し回る必要がなくていいですね。

ホテルの前に「富士の湯」という温泉浴場があり、

頂いた無料入浴券で利用できました。狭いユニットバスが嫌な方には嬉しいです。
会津のお祭り

会津のお祭りといえば、歴代会津藩公の行列などが盛大行われる「会津まつり」が有名ですね。会津編次回は白虎隊・新選組局長近藤勇ゆかりの地へ参ります。






















