滋賀県長浜市にある小谷(おだに)城跡。浅井氏が三代(亮政・久政・長政)にわたって居城としたお城の物語。浅井氏はもともと近江北半分の六郡を治めていた京極氏の家老である上坂信光の家臣でした。ある時、京極氏内での後継争いを巡り、長政公と祖父である亮政公は上坂信光と対立する事になりました。越前の朝倉氏の援護も取りつけ、やがて兵をあげて上坂信光を討ちとりました。
そして小谷山に城を築き、京極丸という館に京極高清と高吉父子を迎え入れ北近江一体を支配する大名になりました。下克上と言われる出来事です。この時の縁で朝倉氏と浅井氏は切っても切れない関係になったのです。絵図の右側に連なる城廓の真ん中に本丸。その少し上に京極丸があります。京極父子はほぼ軟禁状態にあった様で監視するためか、または逃走できない様な配置がされているようです。
亮政公の子である二代久政公は、逆に気弱な性格で、あっさり南近江の六角氏に従い家来になってしまいます。そして六角義賢公の重臣平井定武の家臣の娘を十五になる長政公の妻に迎え入れます。お家の存続を考えた政略なのでしょう。
しかし、長政公はそんな父の考えが気に入らず、三ヶ月後に離婚し宿敵である六角氏に反旗を翻しました。面目を潰された六角義賢公は激怒し翌年八月、二万五千の兵で浅井氏を攻めましたが難攻不落のお城は落とせず、逆にわずか十六歳の長政公率いる一万一千の兵に撃破されてしまいました。これを期に十五の元服の際に六角義賢公から一字をもらい「賢政」とした名を「長政」に改名しました。
●織田信長公との結びつき
焦った六角氏は、すぐさま美濃の斎藤氏と手を結び長政公を討とうと決意。この事が織田信長公と浅井長政公とを結びつける事になりました。織田氏は美濃を征服するべく周辺の諸将と手を結んでおり、浅井氏とも繋がる事で南北から挟み撃ちにできると考えたからです。ただし長政公は同盟を結ぶ際に、一、信長公が越前朝倉氏を討たない事。二、もし討つ行動に出る場合は事前に浅井氏に相談する事。三、お互い協力して京にのぼった時には、政治を二人で相談して決める事。以上の三つの盟約を結び同盟する事にしました。
●お市の方と夫婦に
そこで織田信長公の妹であるお市の方と長政公との結婚話が持ち上がりました。よく政略結婚について、かわいそうだと思う方がいますが実際はそのような事は少なく、むしろ幸せに暮らしていた例が多いようです。こちらの例もそうでした。
永禄七年(1564)三月、長政公二十歳、お市の方十七歳は仲睦まじい夫婦となり、その後小谷城で二男三女の子宝にも恵まれ幸せに暮らしました。信長公の方は美濃の斎藤氏を倒したあと稲葉山城を岐阜城と改名し「天下布武」を発すると足利義昭を奉じて京を目指しますが、その際に協力しなかった六角氏を攻め、本城である観音寺城から六角義賢公を伊賀へ追い出します。協力した長政公は湖北、湖東、湖西を手中に治め大大名へと大出世するのでした。悲願が叶い幸せの頂点だった事でしょう。
JR西日本 北陸本線 河毛駅
大阪駅から滋賀県東海道山陽本線、北陸本線に乗り、滋賀県長浜市にある河毛駅へ到着。駅に降り立つと、そこはもう戦国時代の世界観が広がります。まずお城を連想する造り。木造の様に見えて、コンクリート製なので風雨や大雪にも耐えられるしっかりとした駅舎でした。
中はミニ歴史資料館にもなっており、ジオラマや各種書籍、御城印、武将印と様々です。
これだけあるので少し多めに予算が要りそうです。(浅井長政公と江州小谷城は小谷城戦国歴史館にて)
駅舎から駐車場側へ出ると、この風景と案内板。天下の戦国武将たちが陣を張った場所が細かく記載されています。ガイドさん曰く「駅から戦国史跡をこれほど一望できるのは日本でここだけ!」と言われてましたが、確かにそう思います。
駐車場のロータリーにある浅野長政公とお市の方の像に出迎えてもらえました。こちらでは電動アシスト付きのレンタサイクルもあり、のんびり散策できる様になっています。こちらから小谷城跡にある歴史資料館へ向かえます。
住宅地を過ぎると、のんびりした田園風景。その奥に向かうと案内看板が見えて来ます。道も空いていて爽快な気分で山側の方へ自転車を漕ぐと。
大手門橋が見えてきました。奥に見えるのが小谷城戦国歴史資料館。その後ろにある青々とした山々が小谷城跡。もちろん駐車場もあります。
朝9時から夕方5時まで開いていて、休館日が「火曜日」。博物館や歴史館は月曜日がお休みの所が多いですが、こちらは火曜日なのでお間違いなく。
資料館の建物も砦風になっていて戦国っぽいです。ワクワクします。入口の前には浅井長政公とお市の方のくり抜きパネルのフォトスポット。建物は小さく展示物も少ないですが、映像展示もあり座って鑑賞できます。中の展示物は基本撮影NGです。
こちらには、義の武将 浅井長政公と浅井久政公の武将印(450回忌ver.)と御城印がいただけました。
大手門橋の所から小谷城戦国歴史館へ向かう道の途中に追手口という案内板があり、そこから登山道へ入れるようです。が訪れた時は新型コロナの影響なのか閉ざされていて入れず諦めました。
●事態は一変!信長公との対立
元亀元年(1570)四月、信長公は越前朝倉氏の金ヶ崎城を突如攻撃しました。理由は将軍足利義昭が信長包囲網をつくり、その先鋒役に朝倉義景公を指名したからのようです。当然事前に相談もなく約束を破られた長政公は怒り心頭、盟友の危機を黙って見過ごせません。すぐに朝倉氏を援護するべく信長公の退路を絶とうとしますが、信長公はわずかな家臣で湖西を通り岐阜へ逃げ帰りました。もちろん同盟は破綻、対決姿勢をとった両雄は姉川を挟んでの合戦へと発展することに。
織田・徳川軍の兵は約三万、浅井・朝倉軍二万三千が姉川を挟んで対峙し激戦が始まります。最初は勢いがありましたが、次第に劣勢となっていき浅井・朝倉勢は小谷城へ退避。三年後の天正元年(1573)八月、織田・徳川軍は小谷城の総攻撃を始めます。先鋒役の羽柴秀吉が大嶽山から中の丸、京極丸を落とし小丸が総攻撃を受け久政公が自刃。享年49。
●お市の方との別れ
何を仰せでございます。夫婦は二世も三世もとお誓いなされた貴方様ではございませぬか。嫌です。私はこの城で殿と一緒に自害いたします。それが、お市が生涯かけた幸せでございます。
今生の別れ…。長政公は家臣の藤掛三河守に命じ、お市の方と子たちを信長公の元へ送り届けます。その後小谷城は落城。長政公も自刃。享年29。
その後、新城主になった羽柴秀吉によってお城は廃城となり、資材や城下町は利便性の良い長浜の地へ移されました。一方、無事に戻ってきたお市の方と子たちを見て信長公は大喜びしたそうですが、お市の方はお城へ戻ろうと半狂乱状態だったようです。長政公の気遣いをよそに信長公のその後の処理は見せしめとして凄惨なものとなりました。この頃までの合戦では、女子供の命を奪わうのは武士の恥であり、斬らずに逃すのが暗黙のルールでした。しかしこれ以後から女武者子供も戦いに参加する総力戦の様相になってきたため、容赦せず殲滅するようになっていきました。
浅井三代の墓所
浅井三代(亮政・久政・長政)の墓所は、JR長浜駅より徒歩20分くらいの場所にある徳勝寺というお寺の中にあります。お供えとお参りしました。友と故郷の為に戦い、命を捨てた浅井長政公の熱い心は今でもこの街で生きています。
※浅井久松像(高野山持明院蔵・重要文化財)、浅井長政像(滋賀県安土城考古博物館蔵)、浅井長政婦人像(滋賀県安土城考古博物館蔵)
わしの武運もこれまで。しかし朝倉との盟約を最後まで守り、その道に殉ずる事は武士の誉れである。自ら悔やむことは何もないが、そなたは信長殿が最愛の妹なのだ。わしをおいて我が子らとともに山をくだれ。長い間、そなたには何くれとなく世話をかけた。しかし武士は死ぬときが大事ぞ。この浅井長政を頼む、立派に死なせてくれい。