福岡市東区にある登山を気軽に楽しめる立花山。中世に山城が築かれ、戦国武将たちが争った山でもあります。今回は城主として、また大将の補佐役・影のリーダーとして活躍、戦場では〝雷の化身〟と恐れられた百戦錬磨の勇将の物語。
福岡市東区にある立花山。JR福工大前駅よりバスに揺られ「立花小学校前」(約20分100円)で下車。
そこから歩いて10分ほどで、神社と駐車場と公衆トイレが見えてきました。標高367mの小高い立花山の登山を楽しむ人の姿が見受けられました。
立花山登山口へ向かい、民家の通りへ入る途中にある「立花山梅岳寺」。そこには、かつて戦国時代に活躍した武将立花宗茂公を育てた勇将「立花(戸次)道雪」公のお墓があります。北部九州の大大名だった大友氏の側近として活躍しましたが、その手腕は。今回は、その物語に迫ってみます。
立花(戸次)道雪公 永正十年〜天正十三年(1513〜1585)
ギロッと相手を睨みつけるような肖像画で知られる「立花道雪」公。永正十年(1513)3月15日、豊後大野郡鎧嶽城の薮河原館にて大友氏一族だった戸次親家の家に次男として生まれました。戸次は「べつき」と呼びます。病身の父に代わって兵を率いて初陣を飾り、敵将を討ち取るなど早くも兵略の才をあらわします。
父の死後に元服、主君の大友義鑑から一字賜り「戸次鑑連(あきつら)」と名乗りました。永禄十五年(1562)主君大友義鎮(よしかげ)が、に剃髪し宗麟と号すと、それに習って仏門に入り〝麟伯〟の法号を贈られ、麟伯軒〝道雪〟と称するようになりました。写真:大友宗麟公肖像画
〝雷の化身〟と呼ばれた男
天文十九年(1550)三月、後継者騒動(二階崩れの変)では、大友義鎮(宗麟)の命で反対派だった入田親誠を討伐。同じ年の十一月には肥後の菊池義武を直入郡で自滅させたあと、弘治三年(1557)には筑前の秋月文種を討ち、永禄四年(1561)には門司にて毛利軍と戦うなど、各地を指揮官として転戦し大友氏の腹心として出世していきました。写真:大友宗麟公像/大分駅前
戦場では常に担いだ駕籠に乗り、その周りを百人の武者で固め指揮をとりました。若い頃に受けた落雷により下半身付随になってしまったためです。両手には鉄砲と刀を持って先頭を走り、「雷の化身」と家臣からも恐れられていたそうです。
立花山城
豊後大友氏六代貞宗の代に次男氏泰が大友氏を継ぎ、その嫡男である貞載が立花山に城を築いて立花氏を起こしました。本家を「東大友」こちらを「西大友」と称されました。その後、貞載は建武三年(1336)足利軍に加わり博多を発ちましたが、東上した先で戦死しました。
時は流れ、永禄二年(1559)頃、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の守護職に就いていた大友氏二十一代宗麟公はキリシタン大名でも知られますが、かなり乱れた人で家臣と揉め事が絶えず、立花城を守っていた立花鑑載(あきとし)もそれに耐えかねて離反。その後、裏で毛利氏と通じていた事と知った宗麟は戸次鑑連に命じ鑑載を討ち取らせ、かわりに戸次を立花城主にし「立花鏡連」と称させました。由緒ある「立花」を無くすのが惜しかったようです。
盟友 高橋紹運 天文十七年(1548)〜天正十四年(1586)
岩屋城主 高橋紹運(じょううん)は、豊後大友氏の武将で立花宗茂の実父。大友氏の宿老、吉弘鑑理の次男として生まれました。「高橋氏」は、足利尊氏が菊池氏への押さえとした三検断家(主に治安警備)の一つで、戦国時代は大友勢の一豪族として存続しましたが、七代長種に嫡子が無かったため、義鎮(宗麟)の命により養子として紹運が高橋家へ入り「高橋紹運」と名乗りました。写真:高橋紹運肖像画
同じ大友家家臣として道雪公は、34歳も年下となる紹運に礼を尽くし、紹運も道雪公を父と仰ぎ、共に幾多の合戦に向かう日々を過ごしました。紹運は後に岩屋・宝満城主になりましたが、天正十四年(1586)九州制覇を目指し北上してくる島津義久の大軍の前に、わずか七百余名で立ち向かいながらも健闘むなしく岩屋城にて敗死しました。
一人娘の誾千代を立花城主にする
高橋紹運が死す五年前の天正九年、道雪公は子に恵まれず嫡男がいなかった為、やっと授かった娘の誾千代(右)を立花城主に据えました。しかし誾千代七歳に戦国の世の舵取りを任せるのはやはり心許ない。そこで目を付けたのが、高橋紹運の嫡男である「統虎(むねとら=千熊丸で後の立花宗茂(左)」。幼少の頃から大器になると感じていた道雪公は、早速誾千代の婿に望み紹運へ頼みに行きました。
最初、紹運は断りましたが、ある時は父代わり、ある時は盟友として信頼を寄せていた道雪公から熱心に口説かれれば断れません。紹運は統虎を立花山城へ送り出す決心をし、別れの盃を統虎と交わします。
今日限り、このわしを親と思うな。明日にも道雪殿と敵になるやもしれぬ世だ。その時は、そちが立花勢の先頭に立って、間違いなくこのわしを討ち取れ!
・・・・涙。
道雪殿は常日頃から未練がましいことを嫌っておられるゆえ、もしもそちがわしを前にして不覚の行跡でもあろうものなら、間違いなく義絶を申し渡されることになろう。その時は、おめおめとこの岩屋城に帰ろうなどとは思わず、ただちにその場で腹を切れ!
そう言うと長年にわたり腰に帯びていた「備前長光」を統虎へ与えました。統虎はその刀を父紹運の形見として終生大事に身につけました。そして誾千代に替わり立花山城主「立花統虎」となり、弟の統増が宝満城を守ることになりました。この時、統虎十五歳、誾千代十三歳。
戦場での立花道雪公
〝雷の化身〟として恐れられた道雪公。戦では、たとえ不利な状況でも決して諦めず常に「前進あるのみ」。家臣に少しでも緩みが出ると、すかさず三尺の棒で駕籠の柱を叩き
いのちが惜しくば、このわしを敵の真っ只中に担ぎ込んでから逃げろ!
すると、家臣はたちまち奮い立ち形勢が逆転して勝利を収めることができました。まるでアニメのキャラのようです。
士卒で本来弱い士卒という者はいない。もし弱い者がいるとすれば、その者が悪いのではなく、その者の上に立つ者が励まさないことに罪がある。我が配下の士卒はいうまでもない。ごく身分の低い者でも度々功名をあげている。他家に仕えておくれをとった者がおれば、わしの許にくるがよい。うってかわった逸品にしてみせようぞ。
士卒とは、武士や雑兵のことです。
道雪公の育成学
一見強引に前進させ兵を消耗させるイメージを抱きますが、実際はその逆で猪突猛進を戒め、家臣に対する思いやりを大事にする勇将でした。戦で武功がなく落ち込んでいた家臣には
手柄という者は、うまくいったりいかなかったりするものよ。お前が弱い者でないことは、このわしがよく知っておる。決して焦るではない。次の戦で人にそそのかされ無理をして命を落とすようなことがあってはならぬ。それこそ不忠というものだ。
ははっ!
くれぐれも気をつけて身をまっとうし、どうかこれからもわしのために、大友家のために働いてくれ。わしはこのような身体だが、お前らをうちつれているからこそ、この歳になってもまだ働ける。お前らのお陰だと、いつも感謝の気持ちでいっぱいだ。
そして互いに機嫌よく酒を酌み交わし、武具があれば分け与えたという。
戦で手柄を立てた家臣には(気になります。)
これ、皆の者!あの仁を見よ!わしの目に一寸の狂いもなかった!
そう言って、側に招いて褒め称えました。そして全員を呼び集め
こうやってみんなが一つに心を合わせてくれるので、わしは幸せ者だ。天の冥加(ご加護)、これに尽きる。
道雪公を慕う家臣は多く、誰も裏切りませんでした。
客席などで家臣が相手の心証を害するような無礼を働いた時などは
この者に、ただいま不調法がございましたが、戦に望めば人におくれをとることもなく、火花を散らして戦いまする!槍はこの者が家中随一でござる!
そう言って槍を手にし格好を真似てみせるものだから、たちまち客席は笑いだし終始和やかな雰囲気に包まれたという。庇われた家臣も、後に命を賭けて道雪公を守り亡くなりました。
厳しい一面も
そんな慕われる道雪公ですが、命をかける戦の場ともなれば厳しい一面も。蒲池勢との戦の最中、年を越す事になり家臣の3〜40人が、勝手に陣地を抜け出し我が家へ帰りました。それを知った道雪公はすぐ追手を差し向け、家で会った親子共々成敗させました。やりすぎだと言う者もいましたが、
いや、それは違う!大事な戦場から持ち場を離れて息子に会ったかぎり、その親も同罪だ!!
曲がったことや卑怯な事も嫌いであった道雪公。筑前の秋月種実と戦った時も家臣の一人が
博多で催されている歌舞伎に秋月種実が旅の僧に身を変えて見物に出向くそうです。私めに命じてくだされば、きっと討ちとってご覧にいれます。
すると、道雪公は逆に家臣を咎め、それを許さないばかりか秋月城へ使者を送り
お忍びで博多へ出向かれるのを、我が家臣で狙う者がいるやもしれませぬ。よくよくご用心めされよ。
と伝えたという。
最大の苦慮 堕ちた主君 大友宗麟
そんな道雪公を一番困らせた事。それは主君である大友宗麟の醜態でした。酒色に狂い家臣の妻女にも手をつけ、日夜女の囲まれた奥に引き篭もり表の侍所に顔を見せなくなりました。媚びへつらう家臣を重用し、いさめる家臣を罰していた暴君に離れて行く者が次々と現れました。
そんな主君の目をどうにか覚まさせようと道雪公は〝一世一代の大芝居〟を演じる事を決意します。なんと、真面目な道雪公が宗麟を見習い、あまたの美女を昼夜構わず舞い踊らせ、それを見物しながら酒盃を傾けるようになったのです。当然、周りの家臣団は呆れかえりました。
これで大友氏もいよいよ終わりか・・・。
一方、大友宗麟公は
ほう。あの無骨な道雪がのう。月見や花見の酒宴など性に合わなかったものを、一体どうしたことか!一目そのさまを確かめてくれよう!
とその変身ぶりに興味を持ち、引きこもった奥から道雪公のもとへ出向きました。最初は警戒していた宗麟も次第に心を許し、道雪公も大好きな「三拍子の舞」を三度も踊り酒宴は最高潮に。そろそろかと頃合いを見計らった道雪公は姿勢を正し、やっと対面できた主君宗麟をこんこんと諭すのでした。
道雪公の厳しいお説教に黙って聞き入る宗麟、切々と亡国の例を挙げて涙を流して話す姿に返す言葉もありませんでした。翌日七月七日は節句で諸将が総登城する日。これまで顔を見せなかった宗麟が侍所に現れると誰もが喜び合ったと言います。
立花宗茂公と栗の毬
もう一つの心配事は、立花統虎(宗茂)の事。誾千代は男勝りの性格で養子として入った統虎の事をとかく見下した態度をとっていたため、道雪公は、統虎をそれに負けないくらい気丈な若武者に育てようと励みました。統虎も期待に応え、決して自分を卑下する事なく戦国を生きる当主として振る舞いました。
ある日、道雪公が統虎を連れて山道を歩いていた時、落ちていた栗の毬(いが)が統虎の足の裏に刺さってしまいました。痛がる統虎を見た道雪公は傍にいた家臣になにやら目配せ。するとその家臣は、統虎のもとへ走り寄り栗の毬を抜いたかと思うと、その毬を力を込めて統虎の足に押し付けました。
「ぎゃーーーー!」と悲鳴をあげる統虎。その姿をじっと睨みつける道雪公。その真意に気付いた統虎は歯を食いしばって痛みに耐えました。
その事を統虎は、立花宗茂となり筑後柳川城主になってからも、
あの時の痛さは、いつまでも忘れられぬ。
と、道雪公を懐かしんだという。写真:筑後柳川城跡
立花道雪公墓
天正十三年九月十一日、立花道雪公は筑後高良山で龍造寺氏との戦いの最中に病没。享年七十二。立花山城の麓にある「梅岳寺」にお墓があります。壁に囲まれ、扉には鍵がかかっていますので墓前まではいけません。
甲冑を身につけ敵の方角に向けて埋葬されたといいます。
「天正三年(1575)、立花城の城主だった立花道雪の母を埋葬したので、母の法名養老院と道雪の姓をとり立花山養孝院梅岳寺と改めました。その後、天正十三年(1585)九月十一日、道雪が筑後の陣中で病没したので、その遺体を梅岳寺の母の傍に埋葬しました。
●もう一つの墓所
天正十四年(1588)道雪を継いで城主となった立花宗茂は、豊富秀吉の九州平定の時の働きによって、秀吉から柳川十一万石を拝領し、柳川の地へ移りました。そして、その地に菩提寺として福厳寺を建立しましたが、梅岳寺には、道雪母子が埋葬されているので、そのまま残し供養しました。」写真:柳川福厳寺の墓所。
周辺のスポット
●こみんかみかん
立花山城へ向かい通る住宅地の途中にある「観光案内所兼休憩所」です。かき氷やソフトクリームなど軽食が味わえる古民家があります。少し場所が分かりにくいです。
こちらの名物は「ふわふわかき氷」と各種サンド美味しいです。
少し分かりにくいですが、赤煉瓦の壁に「こみんか みかん」とあります。
ご貴殿には、今一人男子、統虎の弟の統増(むねます)十歳がござる。統虎殿を我が許に。ご貴殿は統増殿と二人で宝満と岩屋の城を守られよ。さすれば将来、統虎・統増の兄弟で力を合わせ、大友の支柱となってくれよう。お家のための、ぜひともお聞き入れ願いたい。